2008年12月30日火曜日

2008 New Item

・マキシマム ザ ホルモン

・BABBI のアイス

・TULLY'S のモンブラン ラテ

・仕事

・明日への遺言

・地頭力を鍛える

・つけめんTETSU

・林道

・Red Bull

・JOY DIVISION

・PALLAZZO

・不都合な真実

・STARBUCKS COFFEE のポテトチップスブラックペッパー

・ROOKIES

・海ほたる

・花炎

・Playback シャンプー

・マイ箸

・ブログ

全てのアイテムが、2008年、私の人生を価値あるものにしてくれました。
それぞれ、大好きなそのアイテムのお陰で、幸せな時間を過ごすことができました。
特に、そのアイテムを教えてくれた方、導いてくれた方!
ありがとうございました!
お陰でとてもステキな時間を過ごすことができました。

そして、アイテムだけではなく、様々な見地を教えてくれた方達も!
自分の脆弱性と向き合いつつも、たくさんの方達に支えられながらなんとか前に進めた感じです!

2009年は更に新しいものをどんどん取り入れて、より、色濃い人生になればと思っています。

みんな大好き!ありがとう!

2008年12月24日水曜日

Another World

Merry Christmas!!

病気の君にも

怯えている君にも

餓えている君にも

独りぼっちの君にも

泣いている君にも

凶器を手にしている君にも

凍えている君にも

疲れている君にも

痛みに耐えている君にも

どうか、幸せがおとずれますように

Love

Peace

& Merry Christmas!!

2008年12月22日月曜日

イメージの削除。新しい見地。状況の変化。

前回のブログで「ステップアップには正しい判断ができるようになるということも含まれる」というような内容を記述しましたが、単に、自分が成長するというだけの意味ではなく、様々なことにも通じると思うんです。
「イメージの削除」
「新しい見地」
継続している状況は、つい概念的に捉えがちですが、状況は気づかぬうちに変化していることが多いようです。
例えば、娘との接し方。
彼女はまだ~だから、~な接し方で上手くいっている。
そんなふうに思っていましたが、先日の個人面談で、私の知らない娘の姿を聞かされ、「人も変化している」ということを改めて認識しました。
子どもの場合はそれを「成長」と呼ぶのでしょうが、大人の場合は単に変化を成長というのはムリがあり、良くも悪くも変化するのが人間ですよね。
そして、善悪両方混在するのも。
嘘がつけないと矛盾が多くなる。
だってどっちも本当だから。
人はそんな思いの中から無意識に選択しながら動向を決めているのかもしれないですね。
娘へのアプローチの仕方を少し変えなければいけない時期に差し掛かっているみたいです。
そんなことを何度か繰り返して、子どもと共に親も成長していくのでしょうね。
子どもの場合は「それ」が必ずやってきますし、親もそれなりに心積もりはしているので、変化にまったく気づかないということは殆どないと思いますが、自分を取り巻く大人の場合は、なかなかそうはいかないようです。
大人の場合はある程度完成されていますし、継続して存在しているので、固定観念(イメージ)が強すぎて、変化になかなか気づけないことがあるように感じます。
「この人はこういう人」
そのイメージはなかなか消えないようです。
たとえ、1回でも嘘つきだと思われると、その後でどんなに正直に行動してもなかなか嘘つきのイメージは消し去られない。
逆のパターンも同じで、今まで頑張りやさんで不平不満を言わない人だった場合、その後、少しずつ変化をして、いつの間にか不平や不満ばかりを言っていたとしても、1度ついた「頑張りやさん」のイメージはなかなか崩れずにいるものなのかもしれないですね。
DVなどもそれが原因のようです。
どんなにひどい暴力を受けても、時々見せる「やさしさ」や、以前のやさしかったイメージがなかなか抜けずに現実を正しく捉えることができない。
そこにはもしかしたら、「情」なども存在するのかもしれませんが、長引くと大事になってしまうことも多いですよね。
なので、冷静に現実を見極めるためにも、イメージの「削除」が必要なのだと思います。
「削除」をするには、勢いや勇気が必要なのかもしれませんが、決して否定的なことだとは私は思いません。
前に進むための必要な行為だと思うから。
現状をより良くするために。
情や執着心の削除。
現実を受け入れること。
そして、決断すること。
守りたいものがあるとするならば、それを行わなければいけない時もある。
自分を取り巻く環境すべてに通じることだと思うから。
私はそれを実行しようと思います。
そして、私を取り巻く環境の人たちにも、実行して欲しい、そんなふうに感じています。
受け入れず、状況が悪化する前に。
傷つく人が増える前に、手を尽くす。
手遅れになる前に。
もちろん取り戻したり、巻き返すことは可能だと思いますが、とても、とても長い時間が必要となることを忘れてはいけないですよね。

状況は変化しているから。

2008年12月20日土曜日

削除

ステップアップをするために様々なものを自分の中に取り入れる。
「取り入れる」作業がとても重要で、例えば、知らないジャンルの本を読んでみたり、「グループ分け(ジャンル分け)」することなく様々な方と話してみたり、芸術に触れてみたり…
どんどん自分の「考えのアイテム」を増やしていくと、「その時」がきたときに怖くないですし。

先日もまた一つ、視野が広がった瞬間を体験しました。
質問に対するそれぞれの答えの関係性の齟齬を見つける作業をしていたときのことです。
全ての項目を肯定しているにもかかわらず、総合評価が「そう思う」ではなく「やや そう思う」を選択している人がいました。
「見つけた!」と思ったわけです。
しかし、それはチェックをなんなくスルーしてしまいました。

その理由として、
ひとつは「そこまで考えてなく、なんとなく ”やや そう思う”にしただけだから。日本人は自己主張することが苦手なので ”やや”が好きなんだ。」
それともうひとつ。
それは「たとえ、全てを肯定していても一つひとつが100%ではないから、総合評価にすると ”やや”になる」
というものでした。

なるほどと思いましたね。
一つひとつが100%ではないから。
人の感じ方のデリケートさに気づいた瞬間でした。
自分の考え方は「~だから、よって~なる」という、一見道筋立てているように思えますが、ある意味マニュアル化されてしまってたんですね。
事実と真実との違い。

目に見えている物事はごく一部で、真相というのは殆ど見えていないのかもしれないですね。
それでも、私たちは手にしている情報だけで判断し、決断をしなければならないのですが…
もうそうなると、あとは想像力を働かせて動向を決めなければならないのでしょうね。
正解(真実)なのかわからないまま。

ホント難しいですよね。
「想像する」
そこには「思い込み(イメージ)」も存在してしまうでしょうし、そうなると先にも記述しましたが、新しい見地というのが必要になってくると思います。
認識している以上に、状態は日々、変化していることが多いのかもしれないですね。
気付かぬうちに…

ステップアップの条件として、できるだけ正しい判断ができるようになるということも含まれると思います。
そのためには、時には「認識の削除」が必要になるということもある。
そんなことを考えた今日この頃でした…

2008年11月19日水曜日

曲名は「サマーヌード」

最近、ずーっと聴きたいと思っていたけど、アーティスト名も曲名も思い出せない曲がありました。
でも、サビとか口ずさんだりして、なんとか思い出そうと一ヶ月くらい格闘していました。
かれこれ13年くらい前の曲でしたかねぇ…
因みに、この曲はどういうわけか、あまり知っている人がいないんですよ。
それなりにヒットしていたと思うんですけどねぇ…
当時、よくカラオケで歌われているのを耳にしていたんです。
モヤモヤした日が続く中、それは突然やってきました。

ドライブ中のことです。
その方のipodから選曲していると…!!!
「~ブラザーズ」
そう、あの曲のアーティスト名も確か「~ブラザーズ」。
もしや…
即、確認ですよ。
「これってもしかして~♪(口ずさむ)な曲?」
「そうそう」
!!!
その時の気持ちといったら…!!!
「うっそ~っ!!!」ですよ!
まさにタイムリー。
超スッキリ!
めちゃめちゃ嬉しかったですよ。
だってずーっと聴きたかったんですよ。
即行聴かせていただきました。
超懐かしかったです。
そのCDは今、もちろん私の手元にあります笑
借りてしまいました。
同じアルバムの中で聴きたい曲がもう一曲あったんですけど、「ループスライダー」。
PUFFYがゲストボーカルとして歌っているんですけど、その曲もよくカラオケで聴いていたし、PUFFYのパートを歌わされてもいました笑

音楽って不思議ですよね。
こんなに人の心を大きく揺さぶるなんて。
曲、一曲でこんなに嬉しいとか、悲しいとか心が変化してしまう。
生きていくうえで直接的に必要ないアイテムじゃないですか、芸術とかって。
映画も音楽も絵画もオブジェも。
その他いろいろ。
でも、芸術がより人間らしい人生にしてくれているように思うんです。
人生を濃くするアイテムなのかなって。
そういったものがないと、ただ、生きるために生活しているだけという感じがしてしまうんです。
「動物的」みたいな。
必要だから、「音楽」という文化が発達したのかなって。
どの国にも、どの民族にも必ず存在してますよね。
ジャングルの奥地の先住民にも。
なので、私にとって音楽は人生を豊かにするための、欠くことのできない大切なツールになっています。
あ、因みにアーティスト名ですが、「真心ブラザーズ」です。
超お勧めですよ!
お試しあれ!

2008年11月1日土曜日

スペシャルな愛の唄

最近、「自分の『生き方』を貫くことが、どんだけ茨の道なのか」ということを思い知るできごとが立て続けに起き、悶々とした日々を送っていました。
うん…辛かったですね。

理想と現実の齟齬。
自分の「器」と必要とされる「器」。
モチベーションの補給と日々のやるべきこと。
ギリギリの状態で微妙なバランスをとりながらもグラグラ…
かなり危ない状態でした。

そして、いつも前に進もうとすると引き戻そうとする力が働いて、それを受け入れるべきなのか、自分の生き方を貫くべきなのか、相当悩みました。
「もうできない!ムリ!」と自棄を起こしそうになったこともありました。
「もう、いい加減手放してよ!」と逃げ出しそうになったこともありました。
まさに、「let me go」状態。
でも…
「everything happens for a reason」
考えましたよ。
たくさん考えました。
どの選択が結果的に「自分にとって」ベストなのかを。

もしかしたらというか、絶対、もっと自分より様々な面で「力」がある人だったら、違う選択、「皆がもっと幸せになれる選択」ができたと思います。
でも、結局、そんな器は持ち合わせてないんでしょうね。
できませんでした。

でも、周りの人たちに迷惑をかけてしまうであろう選択をしたのは、やはり「自分の生き方」を選択しないと結果的に周りの人に更に迷惑をかけてしまうことに繋がると思ったからです。

自分が自分でなくなってしまうと、ずっと演じ続けなければいけなくなりますし、そんなことは長く続けられるわけがなく、いつか壊れてしまうと思いますし、そうなれば、私を支えてくれている人たちに更に迷惑がかかってしまう…
結局は「負の影響」になってしまうと思いました。

それでも、私に「自分の生き方」の選択という決断の後押しをしてくれた人がいました。
無償。
その人は無償で私のために、たくさんの大切な「人生の時間」を費やしてくれました。
決断のタイムリミットが近づいて若干パニックぎみになったとき、独りの時間を作れるどこかリセットできる場所に行こうと、ふと思ったんです。
思いついた場所は「海ほたる」。
お勧めですよ「海ほたる」笑
「その人」は運転することがあまり得意ではない私に、海ほたるへの道をわざわざgoogle mapを開いて説明してくれました。
でも、それだけではなかったんです。
夜中まで仕事をして疲れているのに来てくれたんですよ、海ほたるまで。

海のど真ん中で待ち合わせてす。

知り合ってまだ、3ヶ月ですよ。
もちろん、恋人とかそういう関係でもなく。
「その人」は私を”仲間”だと言ってくれました。
人との繋がりって時間じゃないんですね。
不思議なもので私も「その人」を身内のように感じます。
理屈じゃない、何か最初から決まってた特別な繋がりみたいなものです。

私が出した答えは、
「迷惑をかける量がどんなに多くても、たった一人のこの人のこの無償の行いに応えたい、それでいいじゃない。きっと私なら大丈夫、できる。」
勇気をもらいました。

それと、もう一人。
小さいけど大きな存在。
娘です。
不自由な思いをさせたり、寂しい思いをさせて、おそらく、一番迷惑をかけている相手です。
その娘から仕事終わりにメールがきました。
いつものお休みメールです。
残業で娘が寝る前に帰れないので…
いつも「お休みなさい。お仕事がんばってね。」という内容のものが送られてくるのですが、その日は違うことも書かれていました。
それは「Greeeen」の歌の歌詞。

”ただ泣いて笑って過ごす日々にとなりに立って居れることで君と生きる意味になって君に捧ぐこの愛の唄”

びっくりしました。
このタイミングでこのメール、一瞬で涙腺が反応しましたよ笑
娘がこんなことを書いてくるなんて初めてで、本当に驚きました。
彼女なりに何かを感じているのでしょうね。
まだ子どものなのに私をわかっていてくれてたんです。
可哀想な思いをいっぱいさせているのに…
うん、嬉しかったです。
勝手に私を「引き戻す」原因の一つだと思っていた娘に、逆に励まされました。
きっと娘なら大丈夫。

このメールと「その人」の励ましに支えられ、前に進むことを決断でき、本当に感謝してます。

昨日の海ほたるでみた「日の出」がとてもキレイで感動的だったので、この連休に娘を連れて行ってあげようと思っています。
三連休の半ばの明日は仕事ですが、明後日、洋服を着たまま寝て5:00AMに家を出発するというような日の出ツアーの計画を娘に話したらとても喜んでいました。
楽しみにしているみたいです。

そして、
私は今、「自分の人生」を生きてますよ。
みなさんは「自分の人生」を生きてますか?

2008年10月28日火曜日

「おくりびと」

観て来ましたよー。
本木雅弘主演の映画です。
結論からいうと、持参したハンカチは涙と鼻水でビショビショになりました。
この映画には様々なテーマが散りばめられていて、観る人によって、感じ方や落としどころが、きっと全く違うのでしょうね。
観終わった後は、ホント、いろんなことを考えちゃいました。
納棺師の話だったんですけど、ところどころ「遺体側」目線のアングルで撮られているところがあるんですよ。
旅立っていった人たちの気持ちを想像してみたり、もし、自分が置いてく側になったらなど…考えちゃいましたね。
また、親子の結びつきみたいな題材もあり、娘と彼女の父親との関係について考えました。
今の娘と彼女の父親との関係の状態は、ある意味、私が作り上げてしまってるところがあるので、罪悪感みたいなものがすごい勢いで押し寄せましたよ。
そうなると自分のエゴとも向き合わなければなりませんし、苦しいですね…
観る人によって、賛否両論ありそうですが、とりあえず、「観る価値あり」な映画です。
「すごい良かったよ~!お勧め~!」みたいな盛り上がって言えるような感じはしっくりこないですけど、先にも言いましたが「価値ある映画」という言葉が一番近いですかね。
また、時期を置いてから観てみたいです。
その時の自分のコンディションによって、ピックアップするテーマが変わりそうなので。
うん、お勧めです。

2008年10月16日木曜日

幸せの認識と存在理由

今日はとても嬉しいできごとがありました。

私の職場には身体に障害を負った方もいるのですが、今朝、私が出社すると、私のマグカップにお茶を注いで持ってきてくれたんです。
私はまだ入社して3ヶ月も経っていないのですが、いつの間にか私のマグカップを覚えてくれてたんですね。

彼は脳にも障害が残ってしまっているようで、精神年齢も幼いといった印象を受けました。
彼の様々な「経緯」は社長から伺っていましたが、そこには、ほんとに様々なドラマがあり、それぞれの思いもあり、そして、たくさんの「愛」があるのかもしれません。
社長から話しを受けている間、泣きそうになってしまったことを覚えています。

私は彼に接する度に、障害を負う前の彼を想像してしまいます。
お会いしたことのない彼のご家族のことも考えます。
そして、人間の幸せの認識や、存在理由について思いを巡らせてしまいます。

障害を負う前の自分を彼が覚えているのかは知りませんが、今の自分を受け入れているように見えますし、以前の彼がしていたような職種とはまったく違う、今の職場での「彼の仕事」になんの躊躇もなく取り組んでいるように見えます。

私はシングルマザーなので夫は存在しませんが、もし、自分の愛する夫がある日突然、別の人格になってしまったら…
私はどんなふうに感じて、どんな行動をとるのか想像がなかなかできないです。
きっと物理的にも精神的にも依存していることが沢山あると思いますし、…心細く感じるかもしれません。
それと「寂しさ」もあると思います。
それでも、もちろんネガティブな要素だけではないと思いますが、やはり、当人になってみないとわからないですね。

この事柄については、1回のブログではなかなか完結しないでしょうね。
というか、答えなんてそれぞれ違うものなのは当然ですし、今の自分とその先の自分とでは全く違う感じ方をするかもしれませんし。

ただ、この先も彼に接する度に私の頭の中はフル回転になるでしょうし、ますますコンフューズド状態になってしまうのかもしれませんね。

はい、ずっと考えてみます。

2008年10月12日日曜日

FOODS☆

今日は、食べ物シリーズをドカッとUPしちゃいます↑

1個目☆運動会に作ったお弁当☆


2個め☆渋谷のフルーツパーラー西村のモンブランパフェ☆

3個目☆箱根(仙石が原)に行った時の夜ごはん☆


4個目☆おなじみ笑モンブランラテ☆

それぞれにまつわるお話しは、また追々…笑

2008年10月11日土曜日

生誕と死

日付は替わってしまいましたが、今日10月10日は娘の誕生日p(^-^)q
しかし、平日ということもあり、お誕生日会は日曜にすることにしました。
それでも、お誕生日当日に何もないというのも可哀想なので、”おとなのミスド”でドーナツを買って帰りました。
最近話題になってる、「and on and」というやつです。
ケーキだと帰るまでに傷んでしまいますし、おとなのミスドのドーナツを食べたがっていたので、お昼休みのうちに購入しておいた(会社の側にお店があるので)というしだいです。

残業後、帰宅したのは23:45。
(今日で)11歳の子どもはとっくに寝ている時間ですし、娘からも10時過ぎに「お休みメール」がきていましたが、私には確信があったんです。
絶対起きているなと。
案の定、起きてましたよ笑
”寝ていたけど、たまたま今、目が覚めてしまった”という振りをして。
もちろんウソはすぐにバレますよね。
なんといっても私は「親」ですから笑

それからは、パーティの始まりですよ。
色んな種類のドーナツを味見しながら、二人でお祝いです。
ミスドといっても「おとなの」がつくだけあって、美味しかったです。
チョコクリームもよくあるものではなく、酸味の効いた、まるでトリュフのような高級な感じでしたし、「普通の」ミスドと違って、どれも同じような味ということがなく、値段に見合ったものという感じでした。
夜中にパーティという、イレギュラーな感じにサプライズ的な要素も加わり、娘はとても喜んでくれましたよ。
ある意味、計画どおり(計算どおり?!)で私も満足でした笑

帰宅途中の電車の中で、いつもなら大好きな読書をするのですが、今日は読書もせずに、「娘の存在」について考えていました。
どんな存在と聞かれれば、漠然と「大切な存在」と答えるのでしょうが、日ごろから「大切な存在」ということを意識して生活している訳ではありませんし、面倒くさかったり、鬱陶しかったりということもよくあります。
子育てって手間がかかりますしねぇ笑

忙しかったり時間がないと、自分のことを優先する時もあり、物理的にしてあげられることの数も減るので、そんな自分にイラついてしまったり…
そんなことを考えているうちに、「もし、娘が突然不慮の事故とかで亡くなってしまったら、私はどんなふうに感じて、どんなふうな行動をとるのだろう?」なんてことを考えたりしました。
私の姉は7歳で亡くなっていますし、最近娘の小学校が4泊5日の体験学習に行ったという要素から、そのような発想が浮かんだのかもしれません。

…やばかったです。

そんなことをちょっと想像しただけなのに、電車の中なのに…
涙が…!
想像なのだからと、何度も言い聞かせたのですが、次から次へとポロポロ止まらなくなっちゃったんです。
しょうがない、ストールを鼻まで巻いて下を向きましたよ。
バレないように。
でも、何度も鼻をすすってしまったりしていたので、隣の人にはバレてたっぽいです…
超恥ずかしかったです。
最悪。
もう一度言いますが、単なる「想像」でですよ。
でも感慨深かったです。
「親ってこういうものなのかなぁ」って。

私は開き直ってしまっているのかもしれませんが、あまり親らしくないんです。
弱音を吐いてしまったり、落ち度を見せてしまったり、子どもっぽいですし…
娘にとって私は、「親」というより、助け合わなければならない「家族」という感じなのかもしれませんね。
ただ、完璧ではないけど、「今はこれで間違ってないな」というふうに思っています。
「今」はですけど。
娘は私を好きでいてくれてますし、憧れてくれてるみたいなので笑
また、何らかの変化があった時は、その時に考えて、違う選択をすればいいわけですし。

そんな決して完璧ではない私でも、子どもという存在を「欠くことのできないもの」として捉えているのだと再認識しました。

子どもはどんな存在かって?
もちろん、

「大切な存在」ですよ笑


2008年10月7日火曜日

「世界にありがとうの言葉を」~起~

「世界にありがとうの言葉を」


ふと幼い頃の記憶が蘇る。
こんなにも愛おしいものが存在する世界で満ち足りた思いとは裏腹にどうして不安が押し寄せるのだろう?

あの頃の私は、一人ぼっちで心細かったが確実に「世界」が変わり始めていた。

あれからどれくらいの月日がながれたのだろうか。
いつの間にか「話す」ということが日常に紛れてしまい区別がつかなくなってしまったような気がする。

私が言っていた「世界」は平和になったのだろうか。

母がいなくなってからの私は、母との世界を取り戻すため黙っている事を止めたのだった。

今では私が親になり、新しく訪れた世界と共に胸一杯の幸せや、焦りや、怒りや、充実感や、戸惑いやらが色を変えてやってきた。

私は初めて目にする世界に母の思いを重ねた。

母もまた「世界」の平和のために、私を思い大切にしてくれ正しい事をしていたのだろう。

今の私と同じように。

変化は日々訪れる。
いつの間にか手段が目的に摩り替わってしまうことがあり私はハッとする。

年をおうごとに体は疲れ、心も疲れてくる。
考えると疲れてしまうから考える事が少なくなる。

世界は今、そんな中に存在していると思えてくる。

皆、動物的になり世界が小さくなってきていると私は日々感じる。

今、見えているものの向こう側を見ようとしない。
家族の向こう側、地域の向こう側、時間の向こう側。

我が子を取り巻くさまざまな世界に目をやると途方に暮れる。
何から始めれば良いのか。

人類の世界の~積み重ね
母の世界の~積み重ね
そして、私の世界の~積み重ね

原因を探ると怒りがこみ上げるのはどうしてだろう?

「私達はもしかしたら前に進んでいないのではないか?」
そんなふうに、私は感じているのだろうか?

前に進む ことと あらを捜す こととは違うはずなのに。

答えはどこにあるのだろう。
積み重ねのあら捜しではない、きっともっと違うところに・・・

さまざまな世界を変えようとすると、どこからか波が押し寄せてくるから勇気がいるし、信念もいるし、体力もいる。
でも、その波にさえ忘れてはいけないものが存在するように思う。

私は我が子に言う。

「ありがとうは?」

「・・・あんとっ。」

そう、私達はそれを忘れているのかもしれない。


2008年10月6日月曜日

「世界にありがとうの言葉を」

「世界にありがとうの言葉を」


それはこんな夢だった。
「温かい」陽射しの中で私は母と肩を並べて座っていた。
幼い頃、随分と大人に見えた母は、こうして見るとまだ若く、きれいだった。

今までどこへ行っていたのかと尋ねると「さまざまなものを見てきたわ」とただ一言、遠い目をして母は答えた。
穏やかで静かな時間が流れた。
母は輝いていた。
私はそんな母から目が離せないでいると、母は少し首をかしげて目を細めながら私を見つめてこう言葉を続けた。

「私が世界だと思っていたものは縮小化された、ただの一部に過ぎなかったみたい。
でも、それが私にとっては全てで。向こう側があるなんて考えもしなかったわ。
その向こう側を見てきたの。
全部ではないけどね。」

困惑している私を見ると、母はクスクスっと笑い、細く長い指を組みながら人差し指をあごにあてて考えを巡らせていた。
いつも考え事をする時はそうするのである。

「例えて言うなら…ジャングルの奥地に住んでいる先住民。
そう、私は先住民だったの。
そこには、縮小化された全てが確かに揃っているわ。
家族も、友達も、毎日の仕事も、息抜きも、幸運も、トラブルも、喜びも、悲しみも、生誕も、死も。ありとあらゆるものがそこには存在した。
でもそれは全てではないの。
ジャングルの外には更に大きな世界が存在していたわ。
ジャングルの中は慣れているし、安全で居心地が良かったけど、一度ジャングルを出て外の世界を見てしまうと、全てだと思っていた世界がとても小さく見えたの。
私は知らなすぎた。
向こう側を。
知らないと言うより忘れていたのかもしれない。
だって毎日がとても忙しかったんですもの。
…本当は知っていたけど考えようとしなかっただけかもね。
でももう、知ってしまった以上は、ジャングルには戻れないわ。
もう戻りたくないの。」

母はそう言うと、ぎゅっと口を噤み前を向いた。
瞳は輝いたままだったが、まるで色あせたものを見るようなどこか悲しげな目で一点を見つめていた。

「もう行かなくちゃ。」

そう言うと母は、足元を踏み締めるように立ち上がり私を見つめた。
瞳と同じ栗色の長い髪が風になびいていた。

「早くしないと手遅れになるかもしれないわ。
そしたらみんなもジャングルには住めなくなるのよ。
外の世界は確かに存在するの。
見なかったり、見えないだけで本当に存在するの。
そこには希望も絶望もあるけど、私たちの力で絶望を希望に変えなくては。
どうすればいいのかわからないけど、とにかくやってみるわ。」

そう言うと母は振り返ることなく歩き始めた。
母は確かに人生を生きていた。

春の陽射しの縁側で母と過ごした時間を私は忘れないだろう。
ふと目をやると、そこには愛しい我が子が胸に顔をうずめてすやすやと眠っていた。

2008年10月1日水曜日

子離れ

娘が家を出て2日経ちます…

なーんて、実は月曜から4泊5日の宿泊体験学習に行っているんです。
娘が通う小学校が横浜市のモデル校になって、実験的に行われています。

子どもがいない間に羽を伸ばそう!と思っていたのですが、なんだか寂しいんですよね。
私は割りと自分の時間を持つほうなのですが、それは、娘がいつでも側にいることが前提だったようです。
いざ、いなくなると寂しくてそんな気になかなかなれないんです。
でも、どっちみち残業続きで「羽を伸ばす」なんてできないんですけどね(笑)
環境が変化して初めて自分の意外な一面が見れたという感じです。
「早く帰ってこないかなぁ。」と思いつつも、きっといざ帰ってきたら騒がしくって鬱陶しいんでしょうけど…(笑)

これも所謂一つの「失くして初めて気づく大切なもの」になるのでしょうね。
ホントに失ってしまう前に気がつけて良かったです。
それは、娘に限らず周りのあらゆることに必ず起こることですよね。
有限を無限に感じてしまう。
人生に起こりうる事柄のプチ体験を脳に経験させることができたので、これから暫くはそういったことを常に意識して何事にも取り組めたり、接したりすることができると思います。

一瞬一瞬、周りの全てを愛しく感じながら過ごせたらめちゃめちゃ幸せですよね。

ということで、「まだまだ子離れできていなかった?!」ママの気づきでした(笑)

2008年9月25日木曜日

モンブランラテ



今日のランチはTULLY'Sです。
「モンブランラテ 」超おいしかったです!
お勧めですよ(笑)
という訳で、ただのランチ紹介でした(笑)

2008年9月21日日曜日

「no more war」

お昼休みにランチで入ったおそば屋さん。
オシャレな雰囲気に惹かれて入ってみると、なんと立ち食い!
しかも、一人ランチだったので少し戸惑いましたが、無事?!「一人立ち食いそば」デビューを果たすことができました(笑)
注文する際、店員さんに量を減らすことを勧められましたが、お腹も空いていたし、蕎麦は大好きなのでとりあえず普通盛りを注文することにしました。


が…
出てきた量にビックリ!
普通の蕎麦の4~5倍はありましたね。
しかも、天かすとたまごが無料で食べ放題。
明らかに女性が一人で入るようなお店ではなかったです。
上の写真では量の多さが あまり良くわからないですかね…

食後の完食できなかった写真です。
わかります?
蕎麦も太めだし、器自体も大きいんですよ。
比較対照として握りこぶしを入れて撮ってみましたが伝わりましたでしょうか…
「普通盛りで」と言ってしまった手前、最後のほうは必死に食べましたよ(笑)
お店のご主人にも、そして食べ物にも、申し訳なく思いつつもムリでした。

こんな日常の一コマからも「幸せだなぁ」と、今ある環境に感謝しました。
GReeeeNの「no more war」という曲の中に
「確かな事は この地球に生まれ 君と僕は少し『場所』が違うだけ」
という歌詞があります。
ほんと、このとおりですよね。
かといって、自分のライフスタイルや楽しむこと(幸せになること)に罪悪感を感じる必要はないと思います。
せっかく恵まれた環境に生まれてきたのだから、幸せになることを拒否するようなことは寧ろ罪深いと私は思います。
ただ、向こう側の人たちの存在は常に意識していたいですね。
そして、たとえ少しでもできることは行動に移す。
やらないより、やったほうが良いに決まっていますし、たとえ頭の中で様々なすばらしいことを考えていたとしても、行動にうつさなければ、何にも考えていないのと同じなのだと。

そんなことを考えながら、今日も平和に爪やお肌のお手入れをする私なのでした…

2008年9月14日日曜日

バースデイパーティと仕事

今日は2才になった姪のバースデイパーティでした。
食後に大好きなグラマシーニューヨークのケーキをみんなで食べながら、家族の集合写真を撮ったりプレゼントの包みを開けたりと、とても和やかで素敵な時間を過ごすことができました。
このようなことも「幸せ」を実感できる要素の一つですよね。

「生きてくって辛いけど、楽しくがんばる」
最近、友人が言っていた言葉です。
とてもシンプルだけど、これが全てなんだと思いました。
いくら難しい言葉を羅列してもっともらしいことを言っても、結局、たどり着くところってそこなのかなと。

何をしていてもいいんです。
忙しく仕事をしていても、家族と楽しく過ごしていても、一人の時間を充実させていても、恋人や友達と遊んでいても、勉強していても。
もちろん、楽しめないこともあると思いますが、それをやることによって前に進んでいるということを認識して、とりあえず「辛いけど、がんばる」。
その努力があったからこそ手にすることのできる「楽しみ」があるということを忘れないことが大切なのかなと。
あとは「楽しむこと」を忘れないことが重要なのだと思います。
私は会社に着ていくための服を買います→そのために働きます→その働く場所に行くための服を買います→そのために働きます→…
ある意味、堂々巡りです。
気が滅入ってしまう人もいるでしょう。
それでも私はそれを「楽しい」と感じる。
人生というお話の主人公として、お話を面白いものにするもしないも自分しだいなのだと。
なんのために生まれてきたのかなんて考える暇があったら、行動していたほうが価値的だと私は思います。
観念だけでは幸せは掴めないですし、掴むという行為をしてはじめて手にすることができるのだと。
何のために生まれてきたなんて考えるだけでもおこがましい。
まだ、この先続く未来を経験してないのに、結論なんて出るわけがないんです。

明日、私は休日出勤ですが、仕事は面白いので苦にはなってないですね。
何をするにも自身が前進していること(何か新しいことを取り入れること)が大切なのだと思います。
能動的にアンテナを張り巡らせて。
こんなに時代がダイナミックに変化しているんです。
新しいことが見つからないなんてないはず。
新しいことを見つける方法はいくらでもあると思います。
知らない分野の本を読んでみても良いと思いますし、映画を観たり、セミナーに行ったりしてもいいと思います。
すぐには見つからなくても、必ず何が見つかると思いますよ。
自分探しというよりは、「生き方」探しなのでしょうか。
自分を取り巻く環境によって生き方が変化するのは必然なので、一貫性を持たせる必要もないと思います。
というか、一貫性に拘っていると、なかなか変化(成長)できないかもしれないですね。

ということで、姪のバースデイバーティと、明日の仕事からそんなことを考えたという話でした。

2008年8月26日火曜日

性同一性障害の一つの捉え方

自分の中の当たり前(常識)と他者との違いが大きくて驚くことがあります。
まれにそうではないケースもありますが、ほとんどが価値観や嗜好の問題なのでどちらが正しいということではないのですが、このテーマだけは譲れないというものが「性同一性障害」です。
最近では、性同一性障害の認識度がだいぶ高くなったようで、「女性」としてまたは「男性」としての活躍の場が増えたように感じます。
テレビにもそういった方達が出演されていますが、「彼女達」に対する周りの出演者の態度(マナー)がまるでなっていないことに、しばしば腹を立ててしまうことがあります。
彼女達は「女性」であって「男性」ではないことを忘れているのでしょうか?

想像してみてください。
もし、自分が認識している性別とは違う別の体になってしまったら…
その体のままで思春期を迎えたらどれだけ辛いことか。

性同一性「障害」なんです。
健常ではなく障害なんです。

もし、私の娘が「実は男なのだ」と告白してきたら。
私の場合ですが、「娘の性別が違うこと」にショックを受けるのではなく「五体満足に生んであげられなかったこと」にショックを受けると思います。
体がそっくり違ってしまってるんですよ。
腕が一本足りない状態で生まれてきたり、心臓のバイパスが一本多い状態で生まれてきたり(私ですが…)、そういったこととなんら変わりないと思うんです。
つまり「正常」ではない状態で生まれてきてしまったということです。
もし、親だったら、子どもが正常ではなくて苦しんでいたら、必死になると思うんです。
のんきに「受け入れられない」なんて言っている場合ではないと思います。
例えば心臓が奇形だったら、手術のためにお金を用意したり、必死になって、体と心のケアに努めると思います。
おそらく「認めない」なんて言う親はいないでしょう。

確かに性同一性障害は目で確認できる障害ではないので、今まで認知されてこなかったということはあります。
しかし、一般的に認識されていない病気や障害は多数存在しますし、人間という生命体の不可思議は到底計り知れないのもであり、全部知っている(常識)と思っていることの脆さを今一度謙虚に、そして真摯に受け止めなければならないのかもしれないですね。

おそらく性同一性障害は後天性のものではないと私は思います。
テレビでよく見る光景ですが、「だってほんとは男なんだから」と言いながら、彼女達の体をさわる周りの出演者。
おそらく彼女達は張り裂けそうになりながら、「それ」を演じてると思います。
はっきり言いますが、「痴漢行為」の何ものでもありません!
ただでさえ辛い境遇の中を必死に生きてきたんですから、もっとデリカシーをもって接していただきたいものです。

しかし、この「私の常識」をママ友に話すと、全員が同じ意見ではないことに驚かされます。
自分の子どもがそうだったら受け入れられないという意見も少なくありません。
もちろん、私もそういったアンチな見地はあって当然だと思います。
しかし、認識してもらえずに苦しんでいる子どもたちが存在していると思うとむきにならずにはいられなくなります。
はい、譲れないですね。

このテーマはブログを始めた当初から、いつか書きたいと思っていました。
私はこれからも、「彼ら」「彼女ら」の理解者であり続けようと勝手に思っています…
だって私も親ですから。
いざという時、親は子どものためなら当たり前のように、なんの躊躇もなく命を捨てることができるんです。
私の場合、このテーマに関してのプライオリティは親ではなく、子どもですね。
なので、たまたま私の娘は違いましたが、「苦しんでいる子ども達」「苦しんできた子ども達」が存在しているなら、皆が少しでも楽になるように訴えつづけようと思います。


2008年8月24日日曜日

勝てる子供の脳

最近、ある本を読みました。

「勝てる子供の脳」
著 吉田たかよし 
http://www.yoshida-ne.com/

このような本を手にしてしまうなんて、私も一応は人の子の親なのだと感じましたね笑。
興味深いことが多く書かれていて、なかなか面白い本でした。

そこに書かれていたことはいくつかありましたが、受験の肯定、コミュニケーション能力の重要性、プレゼンテーション勉強方について、A10神経の作用など…
一部を紹介すると、例えば定期テストと受験の違いについて。
定期テストは片っ端から記憶していけば、とりあえず良い点は取れてしまうので、先生が話したことを側頭葉に記憶し、そのまま側頭葉から取り出せば試験で満点が取れてしまう。
つまり脳の中でも極めて部分的な能力だけしか使わないと。
受験のような何か大きなミッションを達成する場合は、プランを作成し、一つ一つ実行するように自分自身をコントロールしなければならないので、脳のコントロールセンターである理性や思考力を司っている前頭前野の支配力を高めていかなければならないということでした。
また、受験のような困難を乗り越えることは、人生にとって価値のあるハードルであり、そこでのストレスは精神を鍛える訓練になるので、社会に出てからも困難を乗り越える機能が脳に備わっているそうです。
つまり、子どもが受験をするということは、人生のミニチュア版を成長過程にある脳に体験させることになると。
他にもなるほどと思えることが多く載ってましたよ。
お子さんがいない方にもお勧めです。

こういった本を読むのは、もちろん娘のためでもありますが、自分のためでもあるんです。
子どもが人生を生きるうえで、ある意味、成功していてくれたほうが安心ですし、余計な気をまわさなくてすむので楽なんですよね、きっと。
結局は人生の主人公は「自分」なんです。
誰かの人生の一部や脇役ではなく。
でもそれは、悪いことだとは思わないですね。
娘のために、それなりの労力を使っているわけですし、何より、娘も幸せ、自分も幸せなんて素敵なことだと思います。
親といえども、完璧にはなれないですし、そんなことを踏まえて子どもと向き合っていけば、お互いパンクしないで済みますし、いつも真剣勝負ばかりだと子どもも息が詰まってしまうと思います。
そんなゆる~い関係を保ちつつの子育て日記でした笑。

2008年8月5日火曜日

実る稲穂

今日は会社の社長のお誕生日でした。
社員のお誕生日にはケーキを皆で食べるのが決まりなのだそうです。
社長はとても嬉しそうにケーキを食べ、決して高い物ではないプレゼントも喜んでいましたよ。
一応、嬉しそうにするとかではなく、本当に皆の「行為」を喜んでくれていたという感じ。
まさに「実る稲穂」なんです。
私まで嬉しくなり、とても幸せな気分になれました。

最近、様々な役付きの方達とお会いする機会があったのですが、どの方もそれぞれ哲学や品があり、タイプこそ違いますが、見習いたいと思えるような方達ばかりでした。
しかし…

先日お会いした福祉の会社の課長だか部長だかわかりませんが、役付きの方は何か勘違いをしているのでは?と思えるような方でした。
福祉と聞くとそれだけで美しいものを想像し、そこに勤める方にも期待してしまいましたが、私は世間知らずすぎたのかもしれませんね。
福祉といえども、所詮は「商売」なんですよね。
きれい事だけではやっていけないとは思いますが、少し悲しかったです…

しかし、不愉快な思いこそしましたが、むしろ感慨深かったですね。
良い勉強になりました。
せっかく人間に生まれてきたのだから、人との出会いや繋がりは大切にしたいです。
そのほうが周りも幸せだし、自分自身も絶対楽しいと思うんですよね。
同じ出会いでも、相手に不快感を与える人なのか、素敵な時間を提供しようとする人なのか…
どうせ生きるのなら、私は後者を選びたいですね。
うちの社長のように…!

2008年7月29日火曜日

向こう側の命

とある小さな貿易会社が求人広告を掲載したところ、応募者が111人!
しかも採用は1人のみ。
1/111ですよ。
やはり日本の景気は下降の一途をたどっているようですね。
大手企業はあまり正社員を採らず、契約社員を多く雇い、働き盛りのコンシューマー達は収入が少ないので当然需要が少なくなる。
人件費削減→収入減→節約→売上高減→人件費削減…
まさに負の輪廻ですね。
どこかで「不景気」という概念を捨てて、皆で「いっせーのーせっ!」と輪廻を崩すという訳にはいかないのでしょうか…

収入が少ないと色々と不便だったり、我慢しなければならなかったりしますが、「切り替え」って大切だと思います。
以前の裕福な生活だったり不自由ない生活というのは、もちろん魅力的です。
しかし、いつまでも余韻に浸っていると取り返しがつかなくなります。
また、スパッと切り替えができる人は、どんな状況になっても巻き返すことができ、結局様々な分野で成功することができるようです。

それに日本人が口にする「貧乏」と発展途上国の人が口にする「貧乏」は程度が違いますよね。
私の友人のご家族の方は、アフリカの里親を養っているそうです。
具体的な金額は忘れてしまいましたが、私たちの一回分の飲み会代くらいだったと思います。
私たち日本人は一回の友人との集まりを我慢すれば命が助かる人たちが存在することを認識しなければいけないのかもしれませんね。

もっと「向こう側」へ目を向けて。

2008年7月25日金曜日

答えは風の中

実は先日からアメブロにもブログを載せ始めたのですが、さすがアメブロ、誰にもお引越しを伝えていないのに、アクセスされた方がいるなんてホントに驚きです。
良かったらそちらもチェックしてみてください!
http://ameblo.jp/reyken/


そもそも何故ブログを始めたかというと、「自分の中の変化を知ってほしい」という欲が出てきたからで、自分発信が目的でした。
今まで見えてなかった物が急に見えるようになることってあるんですね。
一年ちょっと前くらいにそれは起きました。
「見えてなかった」のか、「見なかった」のかはわかりませんが、価値観が大きく変化したんです。
だから、今までの人生の中で、この一年が一番楽しかったですよ。


「自分の変化を知ってほしい」という欲がでると、どのようなことになるのか。
私の場合は、メールが長くなりましたね。
友人からも「長っ!」とつっこまれる始末…
また、各友人へのメールが長くなるので時間もかかります。


メールしている時間も「人生の時間」を使っているので、人生を振り返った時に、「メールしてた」の割合が多くなると「メールしてた人生」に極端にいうとなってしまう。
つまり「今」の積み重ねが「人生」ということなのだと。


なので以前は割りと先読みして、安全な未来を選択して今が身動きとれないことが多かったのですが、最近は「今」を選択することが多くなりました。
これは刹那主義とはちょっと違うのですが、「今を生きる」ことが「人生を生きる」ということになるのだと思います。
無計画はあまりよくないと思いますが、タイミングこそ違っても人それぞれ、がむしゃらに生きなきゃいけない時ってあると思うんです。
勉強、仕事、遊び、福祉、家族、なんでもいいのですが、この先どうなるかわからないけど、とりあえず一生懸命やってみたということが後々に繋がっていくことってあると思います。
でもそれは受動的では気づかないので、その「後々」がきた時にあくまでも自分で見つけ出すものなんですけどね。
まさに「答えは風に舞っている」ですね。


私は「人生」を生きてますよ笑。
皆さんは「人生」を生きてますか?


2008年6月25日水曜日

価値観の肯定

以前、「ヒトラーの贋札」という映画を観ました。
収容所に入れられたある特定のユダヤ人達が偽札作りをさせられた事実に基づいて作られた映画です。
彼らは他のユダヤ人とは違って、とても優遇された環境で偽札作りをさせられていました。
清潔なシーツ、クラッシック音楽のBGM、睡眠、食事、タバコ、自由時間…
しかし、監視された塀の中。
つまりはナチスは”彼ら”を優遇していた訳ではなく、”彼らの技術”を優遇していたのです。
印象的なシーンは、ユダヤ人が食事をしているところにナチスの兵士が入ってくるところです。
彼らはそのナチス兵士が入ってくると、一斉にスプーンをおいて椅子から立ち上がり、直立不動になるのです。
敬意を表したようにも見えるその行為は、とても悲惨で涙が溢れました。
「なんでこんなことになってしまったんだろう?」
同じ人間なのに、何故?
本当に戦争は悲惨なのだと痛感しました。
更にナチスは偽札作りの完成に期限を設けました。
期限までに完成させなければ、偽札作りをさせられているユダヤ人のうち5名を処刑すると。
彼らは必死になって偽札作りをしますが、それぞれ葛藤があり、あるユダヤ人はわざと版画に傷をつけて偽札作りを遅らせるのです。
ドイツ軍に加担するようなことはできないと。
ただ一人、自分の思う正義のために。
当然、仲間達からは非難され暴力を受けたりしました。
仲間の命がかかっているのですから。

私が思ったことは、それぞれに言い分があって、それぞれに正しいと思ったことをしているということです。
偽札作りを遅らせた彼も、彼の中の正義を臆することなく貫いただけであり、期限内に間に合わせようとした人も、仲間の命を救うために必死に偽札作りに励み、処刑を宣告されている5名も、自分の命を守るために偽札作りをわざと遅らせている仲間を痛めつけてまで必死に妨害をやめさせようとする。
更には、期限を言い渡したナチス兵士も、上官から命令されたことを行っただけで、もしかしたら本当はユダヤ人を殺したりしたくなかったかもしれない。
それぞれに正義や苦しみ、葛藤があったのかもしれないと。
後にこの偽札作りを遅らせて、裏切り者呼ばわりされたユダヤ人は終戦後、ヒーローとして尊敬されるようになりました。
つまりは、誰があってて誰が間違っているということがない、それが戦争なのだと思います。

常識や社会正義などはもちろん大切だと思います。
しかし、「こうあるべき」というのはとても危険な考え方に思えました。
”正義”は人それぞれであって、例えばアメリカではベトナム戦争といいますが、ベトナムではアメリカ戦争という。
価値観の押し付けや肯定できないということは視野が狭くなるだけではなく、更には恐ろしい結果を招くこともあるということを認識しなければいけないと思います。
それは、身近な様々なことにも言えますよね。
会社などの組織の中、更には家族という組織の中も。
子育てなどはそういった結果が顕著にあらわれるので、とても怖いです。
厄介なのは、価値観の押し付けになかなか気づきにくいということです。
本人は”正しいことをしている”と思っているのですから。
貫くことも大切ですが、時には先入観を持たずに相手の話にじっと耳を傾け、その知見のメリットを見つける作業をするというのも良いのかもしれませんね。
違った角度から見たら、自分が思っていたものとはぜんぜん違ったものだった!なんてこともあるかもしれませんよ。

2008年6月22日日曜日

地球温暖化について

先日、みなとみらいにお買い物に行ってきたのですが、とても良い天気で気持ち良かったですよ。
みなとみらいまではドアtoドアで約15分という距離なのでよく行きます。
ランドマークや観覧車、マリンタワーも自宅から見えるんですよ。
(ランドマークタワー↓)
横浜は緑が適度にあり、歴史的建造物もあるので歩いているだけでも情緒があって楽しいですよ。
ドラマの撮影などにもよく使われるようで、撮影のロケ現場をちょくちょく目にします。


広々としていて気持ちいいなぁ…と空を見上げながら歩いていたら見たことのない鳥を見つけました。
頭が黒くて、尾っぽが濃いみどり、ひな鳥(ギャーギャー鳴く果物を食べる割とよく見かける鳥)くらいの大きさ…
自然が多いせいか様々な鳥が集まるのでしょうね。
自然とビルとの共存、環境に配慮した横浜、素敵です。
そして、しばらく歩くとビルの上に大きな扇風機のような物を見つけました。
「風力発電」です。
このビルの向こう側にも海沿いに大きな風力発電が見えました。
太陽光発電に比べると風力発電の設置のほうが安価だと聞いたことがあります。
これからはCO2削減のためにも各家庭に一台、なんらかの発電機を設置するようになるかもしれないですね。

CO2削減といえば、先日、我が家の給湯器を新しくしました。
ガス代は古いものと比べてもたいした差はなく、給湯器設置にかかった金額は10年くらいでもとが取れるという程度。
しかし10年経ったら、また新しいものに取り替えないといけない時期ですよね。
なので得をするというものでありませんでした。
ただ、CO2削減という面においては随分と違うようです。
古紙のリサイクルなどもそうですが、CO2削減のためにはむしろコストがかかるのかもしれませんね。
それでも私達は、たとえコストがかかってもCO2排出量の少ない方を選択しなければいけない時期に差し掛かっているのでは?

残念なことに地球の温暖化は急速に進んでいるようです…
餓死しているシロクマの姿は、近い将来の人間の姿なのかもしれないですね。
「近い将来の人間の姿」というと漠然としていますが「あなたの子どもの姿」「あなたの孫の姿」と具体的に言えば実感が湧くでしょうか…
本当に怖いです。
しかしこの表現は、決して大げさではないと思っています。

先日「不都合な真実」というDVDを観ました。
アルゴア元副大統領によって製作されたもので、地球温暖化を取り上げたものです。
皆さんも是非観てみてください。
全てを鵜呑みにする訳ではありませんが、あながちでたらめなデータではないようです。
現在、北極は消滅の危機に瀕しているそうです。
北極が溶けてなくなってしまうと、氷は赤外線をはじくのですが水は吸収してしまうので北極跡の海水が温められてしまうため、暖流寒流の流れが乱れ干ばつや豪雨が続くようになります。
また、グリーンランドの半分と南極の半分が溶けたり、割れたりして海中に滑り落ちると、世界中の海面は約6メートル上昇し、世界地図を描き直さなくてはならなくなるということです。
おそらく大好きな横浜も海の底に沈むのでしょうね。

本当になにから手をつければよいのかわからないくらい温暖化は進んでしまっていますが、わからないなんて言ってられないです。
未来の子ども達のためにも、そして私の娘のためにも。
できることはどんどん実践しなければ!
マイ箸やエコバッグを持つ、極力車は乗らずに公共機関を利用する、電気をこまめに消す、リサイクルに力を入れる等…
「見えないこと」は決して「無いこと」ではないんですね。
みんなで協力して温暖化を食い止めなければ!
もう、時間がないみたいです。
直し方も知らずに破壊し続けてしまった私達人間が、今度は不便やお金をかけて直さなくてはいけないんですね。
すでにたくさんの動物が犠牲になっています。
反省しましょう。

2008年6月21日土曜日

バングラデッシュ

15日のモバイルアートを見た後に代々木公園で開催されていたバングラデッシュフェアに寄って来ましたが、なんでもバングラデッシュはインド亜大陸の東端にある国らしく、カレーやナンといったインドの物が多くありました。
飲み物は色々売っていて、日本でもよく飲まれているビールもあったのですが、せっかくだからということでマハラジャビールを飲むことにしました(昼間から…!)。
マハラジャビールの味は若干水っぽくて薄めという感じ。
インドカレーを売っていた店員さんに「辛いのは好きか」と聞かれたので「好きです」と答えたところ、「特別サービス」と言いながら何やら赤いパウダーをドバドバと入れられ…めちゃめちゃ辛いカレーを食べることになりました。
でも、とてもおいしかったですよ笑。


公園の中は、とてもキレイな民族衣装をまとった現地の方達がたくさんいて、目が合って笑いかけると向こうもニコっと微笑み返してくれるので、とても感じがよく、心が和みました。
そういうのって日本人にはあまりみられないですよね。

バングラデッシュについてはあまりよく知らなかったのでちょっと調べてみたのですが、現在バングラデッシュでは食料品が高騰していて大変みたいです。
日本でも値上がりしていますが、バングラデッシュのお米は半年で50%も値上がったそうです。
しかも家計の70%を食費が占めているそうで、エンゲル係数がとても高い。
しかし、今や食糧難はバングラデッシュに限らず世界各国でみられ、特に発展途上国では深刻みたいです。
私たち日本人は身辺だけを見回して「大変だ」と騒いでいますが、更にもっとその先へ目を向けると向こう側には比較にならない程、大変な状況があることを認識しなければいけないのかもしれないですね。
食糧難に関して私たちができることはいくつかあると思いますが、私のようなどうすれば良いのかわからないという人は、WFP(国連世界食糧計画)などに寄付をするというのも具体的でいいと思います。

困っている人がいたらできるだけ助けになりたいですし、そういうことって巡りめぐっていつか自分に帰ってくるものだとも思いますし。
まさに「一人はみんなのために、みんなは一人のために」ですね。

2008年6月18日水曜日

あたりまえのこと

日曜に国立代々木競技場で開催されているシャネルのモバイルアートに行って来ました。


前売り券、当日券は全て完売だったので、キャンセルがでるまで並ぶことにしました。
スタッフの説明では、2~3時間はかかるということでしたが、小一時間程で入れましたよ。
中に入ると、まずヘッドホンを渡されます。
サウンドウォークという音声ガイドに導かれながら体験していくという形態で、なかなか面白かったです。
展示されているものは創作側の意図がもちろんあると思いますが、感じ方は人それぞれで、一緒に行った友人と私とでも全く違う感じ方をしていたようです。

私が中でも印象深かったのは ”AT THE BOTTOM" という作品で、大きな植木鉢のような筒を上から覗き込むと、壁面にいくつかの映像が映し出されるという物。
蝶やトンボのような昆虫の羽がひらひらと落ちて波にさらわれていくというような映像を見ながら色々なことを連想してしまいました。
最近、悲しいできごとが続きましたよね。
中国の地震、秋葉原の殺人事件、宮城岩手の地震。
落ちていく昆虫の羽が人の命だったり魂に思えて、波にさらわれて遠くに行ってしまったように感じてしまい、見ていて胸が苦しくなりました。
亡くなった方の中には、幼い子どもや志半ばで人生の幕を閉じた若い方もいましたよね。
私達は生きていること、それだけでも幸せなことであり、感謝しなければいけませんね。

そして今日6月18日は私の一番上の姉の命日で、わずか7歳で人生を終えたそうです。
早くに亡くなる人は良い人が多いと言いますが、姉も例外ではなくとても思いやりのある我慢強い健気な子だったようです。
母は「彼女は一生分の思いやりを7年間で使い切ったのよ」と言っていました。
姉が亡くなった1ヶ月後に私が生まれたので、私は直接姉に会ったことはありませんでしたが、姉が亡くなって35年経った今日、初めて姉のアルバムを見ました。
母は今まで辛くて写真を見れなかったそうです。
でも急に姉を忘れ去ってはいけないと思えたらしく、姉が大好きで最後に口にしたというスイカや様々な果物をたくさん買って帰ってきました。
私も母親になり、今なら母の気持ちが痛いほどわかります。
先ほどアルバムを見せてもらいましたが、辛かったですね。
生まれてから少しずつ成長していく姉。
とてもかわいい赤ちゃんで、父も母もとても嬉しそうに抱っこしていました。
動物園や海水浴の写真。
幼稚園に上がり、日付も徐々に進んでいく。
この写真の一年後、この半年後、この2ヵ月後…
そんなふうに考えると涙が溢れてきました。
父と母は私の娘に彼女の人柄や闘病中の話などを聞かせていました。
「健康で生きていることを当たり前だと思ってはいけない。命あることに感謝をしなくては」と。

様々なことにおいて、慣れてしまうとあたりまえになってしまうものなのですね。
「学校があることがあたりまえ」「蛇口から清潔な水が出てくることがあたりまえ」「家族がいてあたりまえ」「生きていてあたりまえ」
私達はつい有限を無限のことのように錯覚してしまうのかもしれないですね。
大切にできる存在があるうちは、目一杯大切にする。
だって失って初めて気づくなんて、そんなの哀しすぎます。
私も、もっと娘を大切に育てようと思いました。
そして、両親や、私を支えてくれている様々な人達も…
ホント感謝です!
でも普段は忙しくて忘れてしまいがちなんですけどね…
せめて思い出した時はありがとうの気持ちを何らかの形で表してみるのも良いかもしれないですね!



2008年5月28日水曜日

クラス会と国会

先日、娘のクラスで「友達の呼び方」について話し合いが持たれたそうです。
クラスに「おやじ」と皆から呼ばれている男の子がいたようで、クラス担任がそれはいかがなものかと問題提起したとのことでした。
どういう経緯で子どもたちはその子を「おやじ」と呼んだのかはわかりませんが、娘の話によると特に深い意味はなく、馬鹿にしたり、からかったりといった類のものではないようでした。
ただ、先生が問題にするからには何らかの理由があってのことだと思いますし、それなりの原因があったのかもしれないですね。
子どもたちには本人が気にしたり嫌がっているようには見えなかったけど、実は違かったり、本人ではなくそのご両親が快く思っていなかったり…

こういったケースは想像力の欠如とはちょっと違うように思います。
相手の立場に立って考えてみても、感じ方は人それぞれ。
悩んでいる時に放っておいてほしい時もあれば、やさしく声を掛けてほしい時もある。
つまりは良かれと思ったことをしてあげるしか方法がないということです。
それでも相手が望まないことだった場合は仕方のないこと。
素直に謝って違うアプローチをするまでのこと。
娘にはアドバイスというほどのものではありませんが日ごろからそんなふうに話しています。

先生は更に友達の呼び方を「ちゃん」「くん」付けで統一して呼ぶよう提案。
さすがにそれは子どもたちも反対したようで、多数決のもと却下されたそうです。
そんなエピソードを娘から聞かされ、クラス会の様子を想像していました。
クラスには ”クラス委員” がいて、オブザーバー的な立場の先生もいますが、基本的にはクラス委員を中心に審議がなされる。
意見がある人は挙手をして、更に指名されて話す機会を与えられて初めて意見を述べることができる。
それまでは、たとえ自分とは違う意見が出たとしても静かに耳を傾ける。
ある程度、様々な意見が出たところで、頃合を見て多数決で決定する。
大体そんなルール(マナー)のもと、クラス委員を皆で支えながら、或いは協力して諸問題を解決したりクラスをより良くしていく。

今も昔も変わらないようで、私が子どもだった頃もこのような形態でした。
なぜ変わらずこの形態が採用され続けるのか。
それはきっと、これが最もスムーズであり公平だからなのでしょうね。
それに子どもたちは、このルールをきちんと守っていますし。

私たち大人が運営している国会も、本来はこうあるべきではないのでしょうか?
質疑応答の際、野次ったり、眠っていたり、隣の人と喋っていたり…
これが小学生だったら、まさに学級崩壊状態です。
小学生でも当たり前のようにルールを守っているのに、私たち大人ができないとはなんともお恥ずかしい限りです。

これは私の考え(理想)ですが、総理大臣も含め各大臣に選ばれた人は、その道のプロでもなければ何年も前に大臣になることを前もってアナウンスされていた人でもなく、ある意味では突然選ばれた人だと思うんです。
ということは、その省に詳しくないことは当然な訳で、質問されて初めてその問題を認識する場合が殆どだと思います。
では、どうしたら良いのか。
その大臣に「そんなことも考えてないなんて」と責め立てるのか、「こんな解決策はどうでしょう?」と協力して支えてあげるのか。
大臣も知らなかったことを取り繕わず、「ではどうするか、一緒に考えよう」と開き直ってしまえば良いし、大臣なんて一人でできる訳がなく、皆が支えて初めてできると思います。
本来そこには党レベルの利害は存在するべきではなく、「目的」を今一度再認識するべきではと。
”信頼回復” のために政治を行うのではなく、人を思いやり、良かれと思って行動した時に初めて信頼を得るのではないでしょうか。
たとえその政策が結果的にベストではなかったとしても…
国民一人ひとりの立場も考え方も様々ですし、やはり想像力を働かせて良かれと思ったことを行動するしかないと思います。
与党も野党も、選挙を経て「この体制で政治をすることになりました」と決まったら、本意でなかったとしてもそれを受け入れ、ルールを守って支えあって協力しあって審議を進めていけば良いと思います。
そこには ”信頼回復” や ”政権交代” といった思惑(雑念)もない。
極めてシンプルで良い、むしろシンプルの方が良い、そんなふうに感じています。

先に既述しましたが、これは ”私の意見” なので、当然「そんなことはきれい事だ」「世間知らずすぎる」「物事はそんな単純なことではない」「他にこんなやり方はどうだろう」等々、様々な意見があっていいと思います。
方法は1つではないことも多いですし、様々な意見を組み合わせても良いと思います。

だらだらとわかりにくい文面になってしまいましたが、
  ・クラス会の形態はなるべくしてなったということ。
  ・それは今もなお、採用され続けているということ。
  ・そのルール(マナー)を子どもたちは守っているということ。
つまりは、今一度私たち大人は子供たちの姿勢を学ぶべきではないのでしょうか?


2008年5月16日金曜日

最も身近なイノベーション

先日、近所にあるお魚屋さん「魚春」で夜ご飯のおかづに鰆と穴子を買ってきました。
そこは住宅街にぽつんと一軒あり、更に通りから一本奥まった所にある知る人ぞ知るお魚屋さん。
もともと私の同級生のご両親が営んでいましたが、お父様が早くにお亡くなりになり、今では同級生と彼女の弟も加わり家族三人で営んでいます。
うなぎ屋さんで修行を積んだ弟が、朝に仕入れたうなぎをお店で開いて焼いている蒲焼は絶品ですし、どのお魚も新鮮でとてもおいしいんですよ。
鰆を味噌のホイル包み焼き(適当に考えて作ってみましたが、味噌が香ばしくてとてもおいしかった!お勧めですよ!)にしたのですが、調理する際、魚を触っても手が生臭くならない程新鮮でした!

通常お魚屋さんといえば、魚介類やせいぜい売っていても海草の乾物類くらいですよね。
しかし魚春には鯛めしやタケノコご飯のような旬の炊き込みご飯が売っていたり、その他お惣菜や調味料、ごま豆腐にいたるまで様々なものが売っていて、そこだけで夜ご飯が揃ってしまうほどです。
他にもお魚の配達もありますし、お正月の時は予約でお節の販売もしていました。
近所には年配の方が多く、ニーズを敏感に察知しているようです。
最近では調理場も新しく建て直し、うなぎが焼けるまで座って待っていられるようにベンチなども置いてあり、一見外観はカフェのようです。

(写真ではわかりにくいですが、外壁の色と木とベンチの組み合わせがとてもかわいいんですよ。暗くなるとベンチがライトアップされたり、裏ではハーブが栽培されていたり…)


時代もダイナミックに移り変わっていきますが、それに合わせて商売の仕方も少しずつ変化していかなくてはいけないのかもしれませんね。
古き良きものを残しつつ、新しいものを取り込んでいく。
企業に限らずこういったイノベーションは身近でも様々と見受けられます。

私の勤め先の会社がお世話になっている税理士事務所の方もその1人。
税理士の先生はもうご年配ですが、知識も豊富で様々なことを熟知していらっしゃる素晴らしい方ですが、やり方などは変わらない、つまり新しいことはなかなか思いつかないし、体力も衰えてくるため知識欲もなくなっていく。
そんな中、新しい主任の方は以前にはなかった様々なフォーマットを用意してくれたり、作業の簡素化のため日々新しいものを作成してくれています。
このようなことも、この税理士会計事務所にとってはイノベーションということになるのでしょうね。

必ずしも年をとることがイノベーションをもたらさない原因という訳ではなく、多忙だったり体が疲れてくると考えることが少なくなり、ただ日々、慣れた作業をこなすだけで動物的になるので、そういったことも原因になりうると思います。
こういったことは私たち個人にも当てはまりますよね。
ただ受動的に過ごしていては世界の様々な変化に追いつきません。
私たち日本人は比較的恵まれた環境にあると思いますが、常にアンテナを張っていないと個人の生活する世界が狭くなり、どんどん縮小化されてしまうと思うんです。
縮小化された世界は慣れていて安全だし、それなりに居心地の良いところだとは思います。
でも世界(外国という意味だけではなく様々な場所だったり、個人がもっている空間だったり)には苦しんでいる人がいたり現状が維持できず生態系が崩れていったりしていることにふたたび目をむけ、私達はそういったことを意識しながら動向を決めなくてはならないのでは?
環境は「ゆっくり」、そして「ものすごい速さ」で変化しています
いったい何から始めれば良いのか未来を思うと途方に暮れますが、まずはできることから、そして”できることを見つける”ことから始めてみませんか?
そんなふうに意識した時点で、もう立派なイノベーションだと思うから…!

2008年5月13日火曜日

生き方の修正とは

前回のブログで
「娘の幸せ=自分の幸せ のような生き方はしたくない」
というようなことを書きましたが、少し言葉が足りなかったように思います。
「生き方」、人生の目的などは人それぞれで価値観の違いなので、「子どもの幸せ=自分の幸せ」という生き方はもちろん、ありだと思います。
ただ、”今”の自分の価値観、考え方としてそれを選択しないというだけで、明日には違った生き方を選択しているかもしれません。


以前の私は、一度決めたことや発言を頑なに貫かなければいけないという考え方でした。
意見をコロコロ変えることは周りを混乱させることもありますし、そして何より今までの自分の生き方を否定しているような気がして、良くないことのように思っていました。
そのために今までの生き方を正当化させたかったし、正当化しようともしました。
でも、正当化しようとしている時点でもう既に価値観が変化しているんですよね。
変化というのはさまざまな形があると思いますが、マイナスではなくプラスに変化することは成長していることだということにある時気づきました。


それ以来、自分とは違う価値観の意見を聞くことが楽しくなりました。
以前は違う意見を言われると、自分の意見を否定されたり、責められているような感覚がありましたが、今では「なるほどそんな捉え方もあるのね」というように新しい発見もありますし、全部ではなくとも「その部分の考え方は素敵だね、いただき!」というように柔軟に自分の意見に取り入れたりしています。

なので、できるだけ自分とは違う意見をたくさん聞きたいですね。
今の自分には必要ない意見でも、後々必要になるかもしれない。
何か新たに決断をする時に、考えのアイテムはできるだけ多く持っていたいですし。
選択肢がたくさんあるというだけで視野も広くなりました。


とりあえず、人の意見はできるだけ先入観を持たずに聞くようにしています。
ただ聞き入れるかどうかはその時の価値観によって変わってくると思いますが…
まったく知らないのと知っているけど選択しないのとは違うと思います。


なので子どものために人生を捧げている人は、それで立派な価値観だと思いますし、素敵な生き方だと思います。
そんな親に育てられた子どもは幸せですね。
人生にこれが正解というのはないと思いますし、さまざまな生き方があっていいと思います。
自分を取り巻く環境によっても選択は変わってくると思いますし。
また、段階によって、環境や目的は変わってきますよね。

例えば、子どもの成長。
トイレトレーニングで家ではパンツをはかせるけれど、外出時や夜中などは完全にオムツが取れるまでお漏らししても大丈夫なようにオムツをはかせる。
そうしないと公共の場を汚して迷惑をかけてしまうかもしれないですし、お布団だってびしょびしょに…
トレーニング中だからと頑なにオムツをはかせない人は少ないですよね。
もっと極端に言えば、トイレトレーニングを始められないような生まれて間もない赤ちゃんにパンツをはかせる人はまずいないでしょう。
子どもの成長に合わせて目的も変わってくるので、それに合わせて選択すればいい訳で、今までの選択が間違っていた訳ではないのです。
まったく変化(成長)しない人はいないですし、それに合わせて意見が変わるというのも必然ということですね。


つまりは、時には自分の生き方の修正も必要という話でした。


2008年5月7日水曜日

家庭サービスと愛情

GWの最終日の昨日。
特に予定もなく天気も良かったので、娘と赤レンガまでプラ~っとお散歩してきました。
昨日は初夏の陽気でしたが、海沿いは風が強くて寒いくらいでした。
でも眺めは最高でしたけとね。


                    (↓夕日に映える赤レンガ。きれいでしょ!)



この日は娘のサンダルを買った以外は特にすることもなく、お茶したりウィンドウショッピングで歩き回るだけ…
おまけに二人とも素足で靴を履いていたため靴擦れをしてしまい、おしゃれは我慢がつきものなどと訳のわからないことを言いながら、帰りは足を引きずりながら帰ってきました。
あまり面白くない一日にでした。
おそらく娘にとっても…



理由はなんとなくわかってるんです。
なんでキレイな海を見ても感動が持続しなかったり、二人で出かけてるのにそれほど娘がウキウキしなかったのか。
それは、私が若干「義務的」になっているせいだと…
家庭サービス。


私はいわゆるシングルマザー。
休日に寂しい思いをさせなくないですし、思い出だってたくさん作ってあげたい。
父親が不在の分、それなりに必死になってしまいます。
つまりは生真面目なんですね。
「こうしてあげたい」がいつのまにか「こうするべき」になってしまう。
手段が目的化してしまう時があるんです。
昨日はその典型です。
可哀想なことをしてしまいました。


私はあまり親らしくないのかもしれないですね。
しかも幼いところが多々あり、コントロールできなくなることがよくあります。
叱っているのか、怒っているのか。
愛しいのか、憎いのか。
娘のためなのか、自分のためなのか。
子育てをすることで自分のエゴと向き合ったり、個人として楽しむことに罪悪感を覚えたり。


そんな微妙な感情のバランスをとりながらゆらゆらと子育てしています。
もちろん娘の幸せは私にとっても幸せなことですが、「娘の幸せ」=「私の幸せ」のような生き方はしたくないですね。
自分の人生を生きることをおろそかにしたり忘れたくないです。


娘とはそのうち並んで歩けるようになると思います。
向き合うのではなく。
となりで助言しながら、ともに歩んでいけたらなと思いました。



2008年5月4日日曜日

GWに箱根へ

以前、友人にブログを勧められたことがありましたが、色々思うところがありチャレンジすることにしました。

昨日は暦上の4連休初日ということで箱根まで温泉につかりに行ってきました。


通常だと地元横浜から箱根まで、東名&小田厚で小一時間。
昨年のGWに私の姉も箱根を目指したようですが横浜ICまで3時間かかりやむなく断念…
今回も渋滞覚悟で出かけましたが然程渋滞らしい渋滞もなく1時間半ほどで着いてしまいました!
どうやらお昼過ぎに出発したことが功を奏したようです。

温泉は日帰り温泉施設の「一休」を利用しました。
敷地内には同じく日帰り温泉の「天山」もあり、そこは一休よりも広く、お風呂の数もたくさんあります。
そして何より一休にはない休憩所やお食事処もあり家族連れやグループで来た方には利用しやすいと思います。
ただ、いつ行っても混んでいてイモ洗い状態…
反対に一休はいつ行っても空いているので今回も一休にしたところ、ほとんど貸切状態でラッキーでした。
緑の香りと滝(小さいけど…)を満喫しながらの温泉は気持ち良くとても良いリフレッシュになりましたよ。

ここまでとんとん拍子にきましたが、帰りにちょっとした事件が…

帰りは元箱根を少しぶらついてお土産に豆腐と湯葉を買いました。
娘は祖母にもらったお小遣いでご当地物のキティちゃんのシャーペンを買おうとしたところ、お財布を車に置いてきたと言うので一先ず私が払うことに。
ところが車に戻ってみてもお財布が見あたらないのです。
どうやら温泉のロッカーに忘れてきてしまったようでした。
お財布の中身を聞いてみると数百円→遅くなると渋滞に巻き込まれるかも…→諦めよう。
ということで帰路に。

ところが、しばらく車を走らせたところで「お誕生日にもらった図書カードも入ってる…」
さすがに堪えたようで半ベソをかいていました。
娘はそそっかしく以前にも同じようなことが何回かありましたが、失くしても困るような物ではなく、注意しても気をつけようとか反省しようとしませんでした。
なので今回のできごとは娘にとっていい薬になったと思ったのですが、さすがに可哀想になり…
帰宅してから一休に電話をしてみると、やはりロッカーに忘れてきたようで着払いで送ってもらうことになりました。
従業員の方の応対もとても親切でありがたかったですね。
娘も今回は反省したようで、いつもなかなか言えない「ありがとう」を何度も言ってました。

そんなこんなで昨日は渋滞もなく、温泉も貸切状態で気持ち良く、従業員の方の心遣いに触れることができ、素敵な一日になりました。
そして何より、痛みを経た娘が一歩成長できたことが嬉しかったですね。