2008年5月28日水曜日

クラス会と国会

先日、娘のクラスで「友達の呼び方」について話し合いが持たれたそうです。
クラスに「おやじ」と皆から呼ばれている男の子がいたようで、クラス担任がそれはいかがなものかと問題提起したとのことでした。
どういう経緯で子どもたちはその子を「おやじ」と呼んだのかはわかりませんが、娘の話によると特に深い意味はなく、馬鹿にしたり、からかったりといった類のものではないようでした。
ただ、先生が問題にするからには何らかの理由があってのことだと思いますし、それなりの原因があったのかもしれないですね。
子どもたちには本人が気にしたり嫌がっているようには見えなかったけど、実は違かったり、本人ではなくそのご両親が快く思っていなかったり…

こういったケースは想像力の欠如とはちょっと違うように思います。
相手の立場に立って考えてみても、感じ方は人それぞれ。
悩んでいる時に放っておいてほしい時もあれば、やさしく声を掛けてほしい時もある。
つまりは良かれと思ったことをしてあげるしか方法がないということです。
それでも相手が望まないことだった場合は仕方のないこと。
素直に謝って違うアプローチをするまでのこと。
娘にはアドバイスというほどのものではありませんが日ごろからそんなふうに話しています。

先生は更に友達の呼び方を「ちゃん」「くん」付けで統一して呼ぶよう提案。
さすがにそれは子どもたちも反対したようで、多数決のもと却下されたそうです。
そんなエピソードを娘から聞かされ、クラス会の様子を想像していました。
クラスには ”クラス委員” がいて、オブザーバー的な立場の先生もいますが、基本的にはクラス委員を中心に審議がなされる。
意見がある人は挙手をして、更に指名されて話す機会を与えられて初めて意見を述べることができる。
それまでは、たとえ自分とは違う意見が出たとしても静かに耳を傾ける。
ある程度、様々な意見が出たところで、頃合を見て多数決で決定する。
大体そんなルール(マナー)のもと、クラス委員を皆で支えながら、或いは協力して諸問題を解決したりクラスをより良くしていく。

今も昔も変わらないようで、私が子どもだった頃もこのような形態でした。
なぜ変わらずこの形態が採用され続けるのか。
それはきっと、これが最もスムーズであり公平だからなのでしょうね。
それに子どもたちは、このルールをきちんと守っていますし。

私たち大人が運営している国会も、本来はこうあるべきではないのでしょうか?
質疑応答の際、野次ったり、眠っていたり、隣の人と喋っていたり…
これが小学生だったら、まさに学級崩壊状態です。
小学生でも当たり前のようにルールを守っているのに、私たち大人ができないとはなんともお恥ずかしい限りです。

これは私の考え(理想)ですが、総理大臣も含め各大臣に選ばれた人は、その道のプロでもなければ何年も前に大臣になることを前もってアナウンスされていた人でもなく、ある意味では突然選ばれた人だと思うんです。
ということは、その省に詳しくないことは当然な訳で、質問されて初めてその問題を認識する場合が殆どだと思います。
では、どうしたら良いのか。
その大臣に「そんなことも考えてないなんて」と責め立てるのか、「こんな解決策はどうでしょう?」と協力して支えてあげるのか。
大臣も知らなかったことを取り繕わず、「ではどうするか、一緒に考えよう」と開き直ってしまえば良いし、大臣なんて一人でできる訳がなく、皆が支えて初めてできると思います。
本来そこには党レベルの利害は存在するべきではなく、「目的」を今一度再認識するべきではと。
”信頼回復” のために政治を行うのではなく、人を思いやり、良かれと思って行動した時に初めて信頼を得るのではないでしょうか。
たとえその政策が結果的にベストではなかったとしても…
国民一人ひとりの立場も考え方も様々ですし、やはり想像力を働かせて良かれと思ったことを行動するしかないと思います。
与党も野党も、選挙を経て「この体制で政治をすることになりました」と決まったら、本意でなかったとしてもそれを受け入れ、ルールを守って支えあって協力しあって審議を進めていけば良いと思います。
そこには ”信頼回復” や ”政権交代” といった思惑(雑念)もない。
極めてシンプルで良い、むしろシンプルの方が良い、そんなふうに感じています。

先に既述しましたが、これは ”私の意見” なので、当然「そんなことはきれい事だ」「世間知らずすぎる」「物事はそんな単純なことではない」「他にこんなやり方はどうだろう」等々、様々な意見があっていいと思います。
方法は1つではないことも多いですし、様々な意見を組み合わせても良いと思います。

だらだらとわかりにくい文面になってしまいましたが、
  ・クラス会の形態はなるべくしてなったということ。
  ・それは今もなお、採用され続けているということ。
  ・そのルール(マナー)を子どもたちは守っているということ。
つまりは、今一度私たち大人は子供たちの姿勢を学ぶべきではないのでしょうか?


2008年5月16日金曜日

最も身近なイノベーション

先日、近所にあるお魚屋さん「魚春」で夜ご飯のおかづに鰆と穴子を買ってきました。
そこは住宅街にぽつんと一軒あり、更に通りから一本奥まった所にある知る人ぞ知るお魚屋さん。
もともと私の同級生のご両親が営んでいましたが、お父様が早くにお亡くなりになり、今では同級生と彼女の弟も加わり家族三人で営んでいます。
うなぎ屋さんで修行を積んだ弟が、朝に仕入れたうなぎをお店で開いて焼いている蒲焼は絶品ですし、どのお魚も新鮮でとてもおいしいんですよ。
鰆を味噌のホイル包み焼き(適当に考えて作ってみましたが、味噌が香ばしくてとてもおいしかった!お勧めですよ!)にしたのですが、調理する際、魚を触っても手が生臭くならない程新鮮でした!

通常お魚屋さんといえば、魚介類やせいぜい売っていても海草の乾物類くらいですよね。
しかし魚春には鯛めしやタケノコご飯のような旬の炊き込みご飯が売っていたり、その他お惣菜や調味料、ごま豆腐にいたるまで様々なものが売っていて、そこだけで夜ご飯が揃ってしまうほどです。
他にもお魚の配達もありますし、お正月の時は予約でお節の販売もしていました。
近所には年配の方が多く、ニーズを敏感に察知しているようです。
最近では調理場も新しく建て直し、うなぎが焼けるまで座って待っていられるようにベンチなども置いてあり、一見外観はカフェのようです。

(写真ではわかりにくいですが、外壁の色と木とベンチの組み合わせがとてもかわいいんですよ。暗くなるとベンチがライトアップされたり、裏ではハーブが栽培されていたり…)


時代もダイナミックに移り変わっていきますが、それに合わせて商売の仕方も少しずつ変化していかなくてはいけないのかもしれませんね。
古き良きものを残しつつ、新しいものを取り込んでいく。
企業に限らずこういったイノベーションは身近でも様々と見受けられます。

私の勤め先の会社がお世話になっている税理士事務所の方もその1人。
税理士の先生はもうご年配ですが、知識も豊富で様々なことを熟知していらっしゃる素晴らしい方ですが、やり方などは変わらない、つまり新しいことはなかなか思いつかないし、体力も衰えてくるため知識欲もなくなっていく。
そんな中、新しい主任の方は以前にはなかった様々なフォーマットを用意してくれたり、作業の簡素化のため日々新しいものを作成してくれています。
このようなことも、この税理士会計事務所にとってはイノベーションということになるのでしょうね。

必ずしも年をとることがイノベーションをもたらさない原因という訳ではなく、多忙だったり体が疲れてくると考えることが少なくなり、ただ日々、慣れた作業をこなすだけで動物的になるので、そういったことも原因になりうると思います。
こういったことは私たち個人にも当てはまりますよね。
ただ受動的に過ごしていては世界の様々な変化に追いつきません。
私たち日本人は比較的恵まれた環境にあると思いますが、常にアンテナを張っていないと個人の生活する世界が狭くなり、どんどん縮小化されてしまうと思うんです。
縮小化された世界は慣れていて安全だし、それなりに居心地の良いところだとは思います。
でも世界(外国という意味だけではなく様々な場所だったり、個人がもっている空間だったり)には苦しんでいる人がいたり現状が維持できず生態系が崩れていったりしていることにふたたび目をむけ、私達はそういったことを意識しながら動向を決めなくてはならないのでは?
環境は「ゆっくり」、そして「ものすごい速さ」で変化しています
いったい何から始めれば良いのか未来を思うと途方に暮れますが、まずはできることから、そして”できることを見つける”ことから始めてみませんか?
そんなふうに意識した時点で、もう立派なイノベーションだと思うから…!

2008年5月13日火曜日

生き方の修正とは

前回のブログで
「娘の幸せ=自分の幸せ のような生き方はしたくない」
というようなことを書きましたが、少し言葉が足りなかったように思います。
「生き方」、人生の目的などは人それぞれで価値観の違いなので、「子どもの幸せ=自分の幸せ」という生き方はもちろん、ありだと思います。
ただ、”今”の自分の価値観、考え方としてそれを選択しないというだけで、明日には違った生き方を選択しているかもしれません。


以前の私は、一度決めたことや発言を頑なに貫かなければいけないという考え方でした。
意見をコロコロ変えることは周りを混乱させることもありますし、そして何より今までの自分の生き方を否定しているような気がして、良くないことのように思っていました。
そのために今までの生き方を正当化させたかったし、正当化しようともしました。
でも、正当化しようとしている時点でもう既に価値観が変化しているんですよね。
変化というのはさまざまな形があると思いますが、マイナスではなくプラスに変化することは成長していることだということにある時気づきました。


それ以来、自分とは違う価値観の意見を聞くことが楽しくなりました。
以前は違う意見を言われると、自分の意見を否定されたり、責められているような感覚がありましたが、今では「なるほどそんな捉え方もあるのね」というように新しい発見もありますし、全部ではなくとも「その部分の考え方は素敵だね、いただき!」というように柔軟に自分の意見に取り入れたりしています。

なので、できるだけ自分とは違う意見をたくさん聞きたいですね。
今の自分には必要ない意見でも、後々必要になるかもしれない。
何か新たに決断をする時に、考えのアイテムはできるだけ多く持っていたいですし。
選択肢がたくさんあるというだけで視野も広くなりました。


とりあえず、人の意見はできるだけ先入観を持たずに聞くようにしています。
ただ聞き入れるかどうかはその時の価値観によって変わってくると思いますが…
まったく知らないのと知っているけど選択しないのとは違うと思います。


なので子どものために人生を捧げている人は、それで立派な価値観だと思いますし、素敵な生き方だと思います。
そんな親に育てられた子どもは幸せですね。
人生にこれが正解というのはないと思いますし、さまざまな生き方があっていいと思います。
自分を取り巻く環境によっても選択は変わってくると思いますし。
また、段階によって、環境や目的は変わってきますよね。

例えば、子どもの成長。
トイレトレーニングで家ではパンツをはかせるけれど、外出時や夜中などは完全にオムツが取れるまでお漏らししても大丈夫なようにオムツをはかせる。
そうしないと公共の場を汚して迷惑をかけてしまうかもしれないですし、お布団だってびしょびしょに…
トレーニング中だからと頑なにオムツをはかせない人は少ないですよね。
もっと極端に言えば、トイレトレーニングを始められないような生まれて間もない赤ちゃんにパンツをはかせる人はまずいないでしょう。
子どもの成長に合わせて目的も変わってくるので、それに合わせて選択すればいい訳で、今までの選択が間違っていた訳ではないのです。
まったく変化(成長)しない人はいないですし、それに合わせて意見が変わるというのも必然ということですね。


つまりは、時には自分の生き方の修正も必要という話でした。


2008年5月7日水曜日

家庭サービスと愛情

GWの最終日の昨日。
特に予定もなく天気も良かったので、娘と赤レンガまでプラ~っとお散歩してきました。
昨日は初夏の陽気でしたが、海沿いは風が強くて寒いくらいでした。
でも眺めは最高でしたけとね。


                    (↓夕日に映える赤レンガ。きれいでしょ!)



この日は娘のサンダルを買った以外は特にすることもなく、お茶したりウィンドウショッピングで歩き回るだけ…
おまけに二人とも素足で靴を履いていたため靴擦れをしてしまい、おしゃれは我慢がつきものなどと訳のわからないことを言いながら、帰りは足を引きずりながら帰ってきました。
あまり面白くない一日にでした。
おそらく娘にとっても…



理由はなんとなくわかってるんです。
なんでキレイな海を見ても感動が持続しなかったり、二人で出かけてるのにそれほど娘がウキウキしなかったのか。
それは、私が若干「義務的」になっているせいだと…
家庭サービス。


私はいわゆるシングルマザー。
休日に寂しい思いをさせなくないですし、思い出だってたくさん作ってあげたい。
父親が不在の分、それなりに必死になってしまいます。
つまりは生真面目なんですね。
「こうしてあげたい」がいつのまにか「こうするべき」になってしまう。
手段が目的化してしまう時があるんです。
昨日はその典型です。
可哀想なことをしてしまいました。


私はあまり親らしくないのかもしれないですね。
しかも幼いところが多々あり、コントロールできなくなることがよくあります。
叱っているのか、怒っているのか。
愛しいのか、憎いのか。
娘のためなのか、自分のためなのか。
子育てをすることで自分のエゴと向き合ったり、個人として楽しむことに罪悪感を覚えたり。


そんな微妙な感情のバランスをとりながらゆらゆらと子育てしています。
もちろん娘の幸せは私にとっても幸せなことですが、「娘の幸せ」=「私の幸せ」のような生き方はしたくないですね。
自分の人生を生きることをおろそかにしたり忘れたくないです。


娘とはそのうち並んで歩けるようになると思います。
向き合うのではなく。
となりで助言しながら、ともに歩んでいけたらなと思いました。



2008年5月4日日曜日

GWに箱根へ

以前、友人にブログを勧められたことがありましたが、色々思うところがありチャレンジすることにしました。

昨日は暦上の4連休初日ということで箱根まで温泉につかりに行ってきました。


通常だと地元横浜から箱根まで、東名&小田厚で小一時間。
昨年のGWに私の姉も箱根を目指したようですが横浜ICまで3時間かかりやむなく断念…
今回も渋滞覚悟で出かけましたが然程渋滞らしい渋滞もなく1時間半ほどで着いてしまいました!
どうやらお昼過ぎに出発したことが功を奏したようです。

温泉は日帰り温泉施設の「一休」を利用しました。
敷地内には同じく日帰り温泉の「天山」もあり、そこは一休よりも広く、お風呂の数もたくさんあります。
そして何より一休にはない休憩所やお食事処もあり家族連れやグループで来た方には利用しやすいと思います。
ただ、いつ行っても混んでいてイモ洗い状態…
反対に一休はいつ行っても空いているので今回も一休にしたところ、ほとんど貸切状態でラッキーでした。
緑の香りと滝(小さいけど…)を満喫しながらの温泉は気持ち良くとても良いリフレッシュになりましたよ。

ここまでとんとん拍子にきましたが、帰りにちょっとした事件が…

帰りは元箱根を少しぶらついてお土産に豆腐と湯葉を買いました。
娘は祖母にもらったお小遣いでご当地物のキティちゃんのシャーペンを買おうとしたところ、お財布を車に置いてきたと言うので一先ず私が払うことに。
ところが車に戻ってみてもお財布が見あたらないのです。
どうやら温泉のロッカーに忘れてきてしまったようでした。
お財布の中身を聞いてみると数百円→遅くなると渋滞に巻き込まれるかも…→諦めよう。
ということで帰路に。

ところが、しばらく車を走らせたところで「お誕生日にもらった図書カードも入ってる…」
さすがに堪えたようで半ベソをかいていました。
娘はそそっかしく以前にも同じようなことが何回かありましたが、失くしても困るような物ではなく、注意しても気をつけようとか反省しようとしませんでした。
なので今回のできごとは娘にとっていい薬になったと思ったのですが、さすがに可哀想になり…
帰宅してから一休に電話をしてみると、やはりロッカーに忘れてきたようで着払いで送ってもらうことになりました。
従業員の方の応対もとても親切でありがたかったですね。
娘も今回は反省したようで、いつもなかなか言えない「ありがとう」を何度も言ってました。

そんなこんなで昨日は渋滞もなく、温泉も貸切状態で気持ち良く、従業員の方の心遣いに触れることができ、素敵な一日になりました。
そして何より、痛みを経た娘が一歩成長できたことが嬉しかったですね。