2008年10月11日土曜日

生誕と死

日付は替わってしまいましたが、今日10月10日は娘の誕生日p(^-^)q
しかし、平日ということもあり、お誕生日会は日曜にすることにしました。
それでも、お誕生日当日に何もないというのも可哀想なので、”おとなのミスド”でドーナツを買って帰りました。
最近話題になってる、「and on and」というやつです。
ケーキだと帰るまでに傷んでしまいますし、おとなのミスドのドーナツを食べたがっていたので、お昼休みのうちに購入しておいた(会社の側にお店があるので)というしだいです。

残業後、帰宅したのは23:45。
(今日で)11歳の子どもはとっくに寝ている時間ですし、娘からも10時過ぎに「お休みメール」がきていましたが、私には確信があったんです。
絶対起きているなと。
案の定、起きてましたよ笑
”寝ていたけど、たまたま今、目が覚めてしまった”という振りをして。
もちろんウソはすぐにバレますよね。
なんといっても私は「親」ですから笑

それからは、パーティの始まりですよ。
色んな種類のドーナツを味見しながら、二人でお祝いです。
ミスドといっても「おとなの」がつくだけあって、美味しかったです。
チョコクリームもよくあるものではなく、酸味の効いた、まるでトリュフのような高級な感じでしたし、「普通の」ミスドと違って、どれも同じような味ということがなく、値段に見合ったものという感じでした。
夜中にパーティという、イレギュラーな感じにサプライズ的な要素も加わり、娘はとても喜んでくれましたよ。
ある意味、計画どおり(計算どおり?!)で私も満足でした笑

帰宅途中の電車の中で、いつもなら大好きな読書をするのですが、今日は読書もせずに、「娘の存在」について考えていました。
どんな存在と聞かれれば、漠然と「大切な存在」と答えるのでしょうが、日ごろから「大切な存在」ということを意識して生活している訳ではありませんし、面倒くさかったり、鬱陶しかったりということもよくあります。
子育てって手間がかかりますしねぇ笑

忙しかったり時間がないと、自分のことを優先する時もあり、物理的にしてあげられることの数も減るので、そんな自分にイラついてしまったり…
そんなことを考えているうちに、「もし、娘が突然不慮の事故とかで亡くなってしまったら、私はどんなふうに感じて、どんなふうな行動をとるのだろう?」なんてことを考えたりしました。
私の姉は7歳で亡くなっていますし、最近娘の小学校が4泊5日の体験学習に行ったという要素から、そのような発想が浮かんだのかもしれません。

…やばかったです。

そんなことをちょっと想像しただけなのに、電車の中なのに…
涙が…!
想像なのだからと、何度も言い聞かせたのですが、次から次へとポロポロ止まらなくなっちゃったんです。
しょうがない、ストールを鼻まで巻いて下を向きましたよ。
バレないように。
でも、何度も鼻をすすってしまったりしていたので、隣の人にはバレてたっぽいです…
超恥ずかしかったです。
最悪。
もう一度言いますが、単なる「想像」でですよ。
でも感慨深かったです。
「親ってこういうものなのかなぁ」って。

私は開き直ってしまっているのかもしれませんが、あまり親らしくないんです。
弱音を吐いてしまったり、落ち度を見せてしまったり、子どもっぽいですし…
娘にとって私は、「親」というより、助け合わなければならない「家族」という感じなのかもしれませんね。
ただ、完璧ではないけど、「今はこれで間違ってないな」というふうに思っています。
「今」はですけど。
娘は私を好きでいてくれてますし、憧れてくれてるみたいなので笑
また、何らかの変化があった時は、その時に考えて、違う選択をすればいいわけですし。

そんな決して完璧ではない私でも、子どもという存在を「欠くことのできないもの」として捉えているのだと再認識しました。

子どもはどんな存在かって?
もちろん、

「大切な存在」ですよ笑


2008年10月7日火曜日

「世界にありがとうの言葉を」~起~

「世界にありがとうの言葉を」


ふと幼い頃の記憶が蘇る。
こんなにも愛おしいものが存在する世界で満ち足りた思いとは裏腹にどうして不安が押し寄せるのだろう?

あの頃の私は、一人ぼっちで心細かったが確実に「世界」が変わり始めていた。

あれからどれくらいの月日がながれたのだろうか。
いつの間にか「話す」ということが日常に紛れてしまい区別がつかなくなってしまったような気がする。

私が言っていた「世界」は平和になったのだろうか。

母がいなくなってからの私は、母との世界を取り戻すため黙っている事を止めたのだった。

今では私が親になり、新しく訪れた世界と共に胸一杯の幸せや、焦りや、怒りや、充実感や、戸惑いやらが色を変えてやってきた。

私は初めて目にする世界に母の思いを重ねた。

母もまた「世界」の平和のために、私を思い大切にしてくれ正しい事をしていたのだろう。

今の私と同じように。

変化は日々訪れる。
いつの間にか手段が目的に摩り替わってしまうことがあり私はハッとする。

年をおうごとに体は疲れ、心も疲れてくる。
考えると疲れてしまうから考える事が少なくなる。

世界は今、そんな中に存在していると思えてくる。

皆、動物的になり世界が小さくなってきていると私は日々感じる。

今、見えているものの向こう側を見ようとしない。
家族の向こう側、地域の向こう側、時間の向こう側。

我が子を取り巻くさまざまな世界に目をやると途方に暮れる。
何から始めれば良いのか。

人類の世界の~積み重ね
母の世界の~積み重ね
そして、私の世界の~積み重ね

原因を探ると怒りがこみ上げるのはどうしてだろう?

「私達はもしかしたら前に進んでいないのではないか?」
そんなふうに、私は感じているのだろうか?

前に進む ことと あらを捜す こととは違うはずなのに。

答えはどこにあるのだろう。
積み重ねのあら捜しではない、きっともっと違うところに・・・

さまざまな世界を変えようとすると、どこからか波が押し寄せてくるから勇気がいるし、信念もいるし、体力もいる。
でも、その波にさえ忘れてはいけないものが存在するように思う。

私は我が子に言う。

「ありがとうは?」

「・・・あんとっ。」

そう、私達はそれを忘れているのかもしれない。


2008年10月6日月曜日

「世界にありがとうの言葉を」

「世界にありがとうの言葉を」


それはこんな夢だった。
「温かい」陽射しの中で私は母と肩を並べて座っていた。
幼い頃、随分と大人に見えた母は、こうして見るとまだ若く、きれいだった。

今までどこへ行っていたのかと尋ねると「さまざまなものを見てきたわ」とただ一言、遠い目をして母は答えた。
穏やかで静かな時間が流れた。
母は輝いていた。
私はそんな母から目が離せないでいると、母は少し首をかしげて目を細めながら私を見つめてこう言葉を続けた。

「私が世界だと思っていたものは縮小化された、ただの一部に過ぎなかったみたい。
でも、それが私にとっては全てで。向こう側があるなんて考えもしなかったわ。
その向こう側を見てきたの。
全部ではないけどね。」

困惑している私を見ると、母はクスクスっと笑い、細く長い指を組みながら人差し指をあごにあてて考えを巡らせていた。
いつも考え事をする時はそうするのである。

「例えて言うなら…ジャングルの奥地に住んでいる先住民。
そう、私は先住民だったの。
そこには、縮小化された全てが確かに揃っているわ。
家族も、友達も、毎日の仕事も、息抜きも、幸運も、トラブルも、喜びも、悲しみも、生誕も、死も。ありとあらゆるものがそこには存在した。
でもそれは全てではないの。
ジャングルの外には更に大きな世界が存在していたわ。
ジャングルの中は慣れているし、安全で居心地が良かったけど、一度ジャングルを出て外の世界を見てしまうと、全てだと思っていた世界がとても小さく見えたの。
私は知らなすぎた。
向こう側を。
知らないと言うより忘れていたのかもしれない。
だって毎日がとても忙しかったんですもの。
…本当は知っていたけど考えようとしなかっただけかもね。
でももう、知ってしまった以上は、ジャングルには戻れないわ。
もう戻りたくないの。」

母はそう言うと、ぎゅっと口を噤み前を向いた。
瞳は輝いたままだったが、まるで色あせたものを見るようなどこか悲しげな目で一点を見つめていた。

「もう行かなくちゃ。」

そう言うと母は、足元を踏み締めるように立ち上がり私を見つめた。
瞳と同じ栗色の長い髪が風になびいていた。

「早くしないと手遅れになるかもしれないわ。
そしたらみんなもジャングルには住めなくなるのよ。
外の世界は確かに存在するの。
見なかったり、見えないだけで本当に存在するの。
そこには希望も絶望もあるけど、私たちの力で絶望を希望に変えなくては。
どうすればいいのかわからないけど、とにかくやってみるわ。」

そう言うと母は振り返ることなく歩き始めた。
母は確かに人生を生きていた。

春の陽射しの縁側で母と過ごした時間を私は忘れないだろう。
ふと目をやると、そこには愛しい我が子が胸に顔をうずめてすやすやと眠っていた。

2008年10月1日水曜日

子離れ

娘が家を出て2日経ちます…

なーんて、実は月曜から4泊5日の宿泊体験学習に行っているんです。
娘が通う小学校が横浜市のモデル校になって、実験的に行われています。

子どもがいない間に羽を伸ばそう!と思っていたのですが、なんだか寂しいんですよね。
私は割りと自分の時間を持つほうなのですが、それは、娘がいつでも側にいることが前提だったようです。
いざ、いなくなると寂しくてそんな気になかなかなれないんです。
でも、どっちみち残業続きで「羽を伸ばす」なんてできないんですけどね(笑)
環境が変化して初めて自分の意外な一面が見れたという感じです。
「早く帰ってこないかなぁ。」と思いつつも、きっといざ帰ってきたら騒がしくって鬱陶しいんでしょうけど…(笑)

これも所謂一つの「失くして初めて気づく大切なもの」になるのでしょうね。
ホントに失ってしまう前に気がつけて良かったです。
それは、娘に限らず周りのあらゆることに必ず起こることですよね。
有限を無限に感じてしまう。
人生に起こりうる事柄のプチ体験を脳に経験させることができたので、これから暫くはそういったことを常に意識して何事にも取り組めたり、接したりすることができると思います。

一瞬一瞬、周りの全てを愛しく感じながら過ごせたらめちゃめちゃ幸せですよね。

ということで、「まだまだ子離れできていなかった?!」ママの気づきでした(笑)

2008年9月25日木曜日

モンブランラテ



今日のランチはTULLY'Sです。
「モンブランラテ 」超おいしかったです!
お勧めですよ(笑)
という訳で、ただのランチ紹介でした(笑)

2008年9月21日日曜日

「no more war」

お昼休みにランチで入ったおそば屋さん。
オシャレな雰囲気に惹かれて入ってみると、なんと立ち食い!
しかも、一人ランチだったので少し戸惑いましたが、無事?!「一人立ち食いそば」デビューを果たすことができました(笑)
注文する際、店員さんに量を減らすことを勧められましたが、お腹も空いていたし、蕎麦は大好きなのでとりあえず普通盛りを注文することにしました。


が…
出てきた量にビックリ!
普通の蕎麦の4~5倍はありましたね。
しかも、天かすとたまごが無料で食べ放題。
明らかに女性が一人で入るようなお店ではなかったです。
上の写真では量の多さが あまり良くわからないですかね…

食後の完食できなかった写真です。
わかります?
蕎麦も太めだし、器自体も大きいんですよ。
比較対照として握りこぶしを入れて撮ってみましたが伝わりましたでしょうか…
「普通盛りで」と言ってしまった手前、最後のほうは必死に食べましたよ(笑)
お店のご主人にも、そして食べ物にも、申し訳なく思いつつもムリでした。

こんな日常の一コマからも「幸せだなぁ」と、今ある環境に感謝しました。
GReeeeNの「no more war」という曲の中に
「確かな事は この地球に生まれ 君と僕は少し『場所』が違うだけ」
という歌詞があります。
ほんと、このとおりですよね。
かといって、自分のライフスタイルや楽しむこと(幸せになること)に罪悪感を感じる必要はないと思います。
せっかく恵まれた環境に生まれてきたのだから、幸せになることを拒否するようなことは寧ろ罪深いと私は思います。
ただ、向こう側の人たちの存在は常に意識していたいですね。
そして、たとえ少しでもできることは行動に移す。
やらないより、やったほうが良いに決まっていますし、たとえ頭の中で様々なすばらしいことを考えていたとしても、行動にうつさなければ、何にも考えていないのと同じなのだと。

そんなことを考えながら、今日も平和に爪やお肌のお手入れをする私なのでした…

2008年9月14日日曜日

バースデイパーティと仕事

今日は2才になった姪のバースデイパーティでした。
食後に大好きなグラマシーニューヨークのケーキをみんなで食べながら、家族の集合写真を撮ったりプレゼントの包みを開けたりと、とても和やかで素敵な時間を過ごすことができました。
このようなことも「幸せ」を実感できる要素の一つですよね。

「生きてくって辛いけど、楽しくがんばる」
最近、友人が言っていた言葉です。
とてもシンプルだけど、これが全てなんだと思いました。
いくら難しい言葉を羅列してもっともらしいことを言っても、結局、たどり着くところってそこなのかなと。

何をしていてもいいんです。
忙しく仕事をしていても、家族と楽しく過ごしていても、一人の時間を充実させていても、恋人や友達と遊んでいても、勉強していても。
もちろん、楽しめないこともあると思いますが、それをやることによって前に進んでいるということを認識して、とりあえず「辛いけど、がんばる」。
その努力があったからこそ手にすることのできる「楽しみ」があるということを忘れないことが大切なのかなと。
あとは「楽しむこと」を忘れないことが重要なのだと思います。
私は会社に着ていくための服を買います→そのために働きます→その働く場所に行くための服を買います→そのために働きます→…
ある意味、堂々巡りです。
気が滅入ってしまう人もいるでしょう。
それでも私はそれを「楽しい」と感じる。
人生というお話の主人公として、お話を面白いものにするもしないも自分しだいなのだと。
なんのために生まれてきたのかなんて考える暇があったら、行動していたほうが価値的だと私は思います。
観念だけでは幸せは掴めないですし、掴むという行為をしてはじめて手にすることができるのだと。
何のために生まれてきたなんて考えるだけでもおこがましい。
まだ、この先続く未来を経験してないのに、結論なんて出るわけがないんです。

明日、私は休日出勤ですが、仕事は面白いので苦にはなってないですね。
何をするにも自身が前進していること(何か新しいことを取り入れること)が大切なのだと思います。
能動的にアンテナを張り巡らせて。
こんなに時代がダイナミックに変化しているんです。
新しいことが見つからないなんてないはず。
新しいことを見つける方法はいくらでもあると思います。
知らない分野の本を読んでみても良いと思いますし、映画を観たり、セミナーに行ったりしてもいいと思います。
すぐには見つからなくても、必ず何が見つかると思いますよ。
自分探しというよりは、「生き方」探しなのでしょうか。
自分を取り巻く環境によって生き方が変化するのは必然なので、一貫性を持たせる必要もないと思います。
というか、一貫性に拘っていると、なかなか変化(成長)できないかもしれないですね。

ということで、姪のバースデイバーティと、明日の仕事からそんなことを考えたという話でした。