2008年6月25日水曜日

価値観の肯定

以前、「ヒトラーの贋札」という映画を観ました。
収容所に入れられたある特定のユダヤ人達が偽札作りをさせられた事実に基づいて作られた映画です。
彼らは他のユダヤ人とは違って、とても優遇された環境で偽札作りをさせられていました。
清潔なシーツ、クラッシック音楽のBGM、睡眠、食事、タバコ、自由時間…
しかし、監視された塀の中。
つまりはナチスは”彼ら”を優遇していた訳ではなく、”彼らの技術”を優遇していたのです。
印象的なシーンは、ユダヤ人が食事をしているところにナチスの兵士が入ってくるところです。
彼らはそのナチス兵士が入ってくると、一斉にスプーンをおいて椅子から立ち上がり、直立不動になるのです。
敬意を表したようにも見えるその行為は、とても悲惨で涙が溢れました。
「なんでこんなことになってしまったんだろう?」
同じ人間なのに、何故?
本当に戦争は悲惨なのだと痛感しました。
更にナチスは偽札作りの完成に期限を設けました。
期限までに完成させなければ、偽札作りをさせられているユダヤ人のうち5名を処刑すると。
彼らは必死になって偽札作りをしますが、それぞれ葛藤があり、あるユダヤ人はわざと版画に傷をつけて偽札作りを遅らせるのです。
ドイツ軍に加担するようなことはできないと。
ただ一人、自分の思う正義のために。
当然、仲間達からは非難され暴力を受けたりしました。
仲間の命がかかっているのですから。

私が思ったことは、それぞれに言い分があって、それぞれに正しいと思ったことをしているということです。
偽札作りを遅らせた彼も、彼の中の正義を臆することなく貫いただけであり、期限内に間に合わせようとした人も、仲間の命を救うために必死に偽札作りに励み、処刑を宣告されている5名も、自分の命を守るために偽札作りをわざと遅らせている仲間を痛めつけてまで必死に妨害をやめさせようとする。
更には、期限を言い渡したナチス兵士も、上官から命令されたことを行っただけで、もしかしたら本当はユダヤ人を殺したりしたくなかったかもしれない。
それぞれに正義や苦しみ、葛藤があったのかもしれないと。
後にこの偽札作りを遅らせて、裏切り者呼ばわりされたユダヤ人は終戦後、ヒーローとして尊敬されるようになりました。
つまりは、誰があってて誰が間違っているということがない、それが戦争なのだと思います。

常識や社会正義などはもちろん大切だと思います。
しかし、「こうあるべき」というのはとても危険な考え方に思えました。
”正義”は人それぞれであって、例えばアメリカではベトナム戦争といいますが、ベトナムではアメリカ戦争という。
価値観の押し付けや肯定できないということは視野が狭くなるだけではなく、更には恐ろしい結果を招くこともあるということを認識しなければいけないと思います。
それは、身近な様々なことにも言えますよね。
会社などの組織の中、更には家族という組織の中も。
子育てなどはそういった結果が顕著にあらわれるので、とても怖いです。
厄介なのは、価値観の押し付けになかなか気づきにくいということです。
本人は”正しいことをしている”と思っているのですから。
貫くことも大切ですが、時には先入観を持たずに相手の話にじっと耳を傾け、その知見のメリットを見つける作業をするというのも良いのかもしれませんね。
違った角度から見たら、自分が思っていたものとはぜんぜん違ったものだった!なんてこともあるかもしれませんよ。

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