2008年10月6日月曜日

「世界にありがとうの言葉を」

「世界にありがとうの言葉を」


それはこんな夢だった。
「温かい」陽射しの中で私は母と肩を並べて座っていた。
幼い頃、随分と大人に見えた母は、こうして見るとまだ若く、きれいだった。

今までどこへ行っていたのかと尋ねると「さまざまなものを見てきたわ」とただ一言、遠い目をして母は答えた。
穏やかで静かな時間が流れた。
母は輝いていた。
私はそんな母から目が離せないでいると、母は少し首をかしげて目を細めながら私を見つめてこう言葉を続けた。

「私が世界だと思っていたものは縮小化された、ただの一部に過ぎなかったみたい。
でも、それが私にとっては全てで。向こう側があるなんて考えもしなかったわ。
その向こう側を見てきたの。
全部ではないけどね。」

困惑している私を見ると、母はクスクスっと笑い、細く長い指を組みながら人差し指をあごにあてて考えを巡らせていた。
いつも考え事をする時はそうするのである。

「例えて言うなら…ジャングルの奥地に住んでいる先住民。
そう、私は先住民だったの。
そこには、縮小化された全てが確かに揃っているわ。
家族も、友達も、毎日の仕事も、息抜きも、幸運も、トラブルも、喜びも、悲しみも、生誕も、死も。ありとあらゆるものがそこには存在した。
でもそれは全てではないの。
ジャングルの外には更に大きな世界が存在していたわ。
ジャングルの中は慣れているし、安全で居心地が良かったけど、一度ジャングルを出て外の世界を見てしまうと、全てだと思っていた世界がとても小さく見えたの。
私は知らなすぎた。
向こう側を。
知らないと言うより忘れていたのかもしれない。
だって毎日がとても忙しかったんですもの。
…本当は知っていたけど考えようとしなかっただけかもね。
でももう、知ってしまった以上は、ジャングルには戻れないわ。
もう戻りたくないの。」

母はそう言うと、ぎゅっと口を噤み前を向いた。
瞳は輝いたままだったが、まるで色あせたものを見るようなどこか悲しげな目で一点を見つめていた。

「もう行かなくちゃ。」

そう言うと母は、足元を踏み締めるように立ち上がり私を見つめた。
瞳と同じ栗色の長い髪が風になびいていた。

「早くしないと手遅れになるかもしれないわ。
そしたらみんなもジャングルには住めなくなるのよ。
外の世界は確かに存在するの。
見なかったり、見えないだけで本当に存在するの。
そこには希望も絶望もあるけど、私たちの力で絶望を希望に変えなくては。
どうすればいいのかわからないけど、とにかくやってみるわ。」

そう言うと母は振り返ることなく歩き始めた。
母は確かに人生を生きていた。

春の陽射しの縁側で母と過ごした時間を私は忘れないだろう。
ふと目をやると、そこには愛しい我が子が胸に顔をうずめてすやすやと眠っていた。

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